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校則を守るな

校則を守るな、こんなことを学校の先生に言ったら怒られるかもしれない。だが、実際、学校の校則を守ることにはそんなに意味があるのだろうか。皆さん、一度はこういったことを考えたことがあるのではないだろうか。事実、学校を卒業すると、学校の校則で禁止されていたことが、社会に出ると当たり前のようにできていないといけない。例えば、メイクやスマートフォンなどだ。中学や高校では、メイクをすることやスマートフォンを持ち込み禁止とされていることが多い。だが、社会に出るとどうだろう。メイクをしていることが当たり前、スマートフォンの操作ができることが当たり前のように必要とされている。もはや、そういったことができていない人の方が少数派のように見えることもある。ここで、矛盾が生じる。学校は、社会に出るために必要な知識を得ながら、その知識を活用する場所であると筆者は考えている。だが、社会に出るために必要な知識を得たにも関わらず、学校でそれらの知識を活用することはできないのだ。これはとても不思議である。

こんなことを言っているが、筆者は、学校の校則を破ったことは一度もない。というか、破る勇気もなかった。学校の校則は何の意味があるのか、冒頭にも書いたことだが、筆者は、この意味など、考えたこともなかった。小学校のころから当たり前のようにあったものであり、中学校、高校と守られるべきものである、そういう風に考えていた。たまに、校則違反で引っかかっている人がいたが、そういった人を見ては、「何をやっているんだろう、何もいじったりしなければいいのに。」そういう風に思っていた。だが、高校を卒業を今だから分かる。なぜ、あんなにも真面目に校則を守っていたのだろう、と。

校則を守ることは、当然のことながらいいことだ。だが、校則を守り続けた筆者だから分かる。校則を守り続けても何一つ残ったことがないように感じる。簡単に言うと、真面目に校則を守っていても、つまらない、ということだ。

学生時代を思い出してほしい。学校の校則を守っていなかったやんちゃな人達がいなかっただろうか。その人たちは、あんなにも校則を破ったりして、学校の先生にいつも怒られるのに、なぜか気楽に学生生活を楽しんでいる。(そういったことがシンプルに楽しく感じる時期もあるのかもしれないが。)だが、そういった人達は、なぜか先生に名前等を覚えられるのが速く感じないだろうか。実際、筆者の学校ではそうだった。そういった先生に目をつけられたような人は、なぜか、名前等を覚えられるのが速い。それに対して、一度も校則を破ったことのない筆者は、3学期になっても名前を覚えてもらえていなかった。これは、シンプルに存在感がなかっただけなのかもしれないが。

これは、他のことにも言えるのではないだろうか。なぜか、真面目に生きてきたのに報われない。自分より不真面目そうな人の方が幸せに見える。また、これは近年起こっている「テレビ離れ」にもいうことができると思う。なぜ、「テレビ離れ」ということが起こっているのだろうか。一つの理由として考えられるのは、SNSやインターネットといったものの発展であろう。だが、今回考えたいのは、それではない。今回「テレビ離れ」が発生していることの理由として考えたいのは、素直にテレビが面白くなくなったからである。これは、どういうことか、というと、視聴者が、テレビを見ていてハラハラドキドキしなくなってきている、ということである。決して、テレビ自体が面白くなくなったわけではない。そして、この事実をテレビ側も理解しているだろう。だったら、「テレビ離れ」していなかった時代の企画を同じようにテレビですればいい。そうすれば、そういったことが起こらなくなる。しかし、これはできない。なぜか。理由は明確だ。昔の時代にはなかったコンプライアンスというものが存在しているからだ。正確にいうと、昔よりもそういったコンプライアンスといわれるものが強化されてきたというべきかもしれない。つまり、こういった理由で、テレビは無茶な企画ができない。そうすると、テレビを面白く感じる人が減少する、そして、「テレビ離れ」が起こる。これは筆者の単なる仮説にすぎないが、そういったことも影響しているのでは、と筆者は考えている。

これまで、長々と具体例を出してきたが、ここで、伝えたいことは、真面目に生きていてもつまらないということだ。学生時代の出来事、テレビ離れに共通しているのは、いい意味での「淀み」がないことだ。というか、そういった「淀み」を社会は無くそうとしている。だが、人はそういった「淀み」があるからこそ人生を謳歌できるのではないか、そういう風にも思う。確かに、法律などを違反することは絶対にダメである。それは、いい意味での「淀み」ではない。だが、長い人生において、いい意味での「淀み」を経験するのは少なからず必要に感じる。一応いっておくが、筆者は、校則を守るな、破れ、といっているわけではない。校則の範囲ないでの「淀み」、学校外での「淀み」そういったものを経験してほしいと思い、この記事を書いている。

筆者は、これまでそういった「淀み」というものを避けてきた。いけないことであると感じていたからだ。だが、それは違う。人生において、そういった「淀み」も経験することで、より大きな大人になることができるのではないか、そういう風に思う。この方法が正しいか、間違っているかは別として、あえてこれまでの自分が知らなかった世界を知ることによって、何か得ることもあるかもしれない。

真面目に生きているのに報われていない人!これからもそのままでは、何も変化は起きない。あえて、自分の知らない世界を知ることもしてみてはどうだろうか。

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