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養生訓 巻第七 用薬 鳳凰堂流解釈㉖


原文を現代文に改変

右藥一服の分量の大小、用水の多少を定むる事、予醫生にあらずして好事の謗り、僭率(せんそつ)の罪のがれがたしといえども、今時本邦の人の稟賦をはかるに、おそらくはかくの如くにして宜かるべし。願わくば有識の人博く古今を考え、日本の人の生まれつきに應じ、時宜に適いて過不及の差(たがい)なく、輕重大小を定め給うべし。

鳳凰堂流意訳

右薬一服の分量の大小、使う水の多少を定める事は私が医師と言うより儒学者と言う事で、謗ったり、分を弁えないと言う罪は逃れがたいが、今時日本の人の元々持っている力をはかると、おそらくはこのように考えて良いものと思われる。

できれば有識者が広く古今を考え、日本人の生まれつきに適応し、その時、状況に適い過不足の差がなく、軽重、大小を定めていただきたいと思う。

鳳凰堂流解釈

分野に関わらない本質的なこと。

周易はその基本の型。

その為、鳳凰堂は周易を形、道徳経を気とし、

形気(現在と未来、現世と来世)を一つとして観ながら、人を診ています。

貝原益軒は、藩医となったと書かれていますが、自身は儒学者であり、医は完全な専門家ではないと考えたのかもしれませんが、この本質的な事に関しての見識と儒学者としての謙虚さが現れた項になっています。

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