勝つ訳にいかないディズニーヴィランとカタルシスの置き場

「ディズニーツイステッドワンダーランド」
ディズニーヴィランをモチーフにしたキャラクターたちと、不思議な世界で学園生活を送る楽しいアドベンチャーゲームである。

さてこのツイステであるが、ストーリー面で「キャラクターが可哀想でショックを受けた」という人々の感想を時折耳にする。

実際そうなのだ。

それについて、私が思う「倫理的に悪を描く苦悩」という妄言テキストができたのでここにしたためる。


ツイステの物語
そもそもこのゲーム、一般的なヒーローサイドから見た冒険活劇とは前提条件が違うのだ。
彼らはヴィランなのである。
メインシナリオを書く枢先生が述べていたように、「悪は正義に勝つわけにいかない。」
国際的なファミリーエンタテインメントを提唱するディズニー社という面を除いても、それは守られるべき倫理だろう。

そのため、ツイステの物語は「それぞれの生い立ちや境遇から生まれる思いがぶつかり合う群集劇」となっている。
さて、こうなるとどうしてもカタルシスの見つけどころが難解になるのだ。

悪のゴールはどこだ?
今言ったように「悪の勝利」は倫理的にやってはいけないので、「勝利」以外のゴールが必要になる。
そこでこのゲームにおいて用意されたのが、「悪に至るまで堕ちたキャラクターの救済」である。そういうの大好き。

例えば5章を考えてみよう。
もしこれが一般の学園ドラマであれば、物語の着地点は100%「VDCの勝利」のはずだ。
主人公が努力して、協力して、勝利を手にする。理想的なハッピーストーリーである。
ただこれは悪役側の物語。勝利に憑りつかれて道を踏み外したヴィルを待っていたのは敗北であった。

そう、この第5章。物語の着地点は「ヴィルが呪縛から解かれること」だった。
ストーリーの合間合間に語られる、ヴィルの異常な承認欲求やルークの言葉からそれがわかるのだが、ストーリー的に主人公たちがもっぱら「VDCの勝利」を掲げるので着地点がやや分かりづらいのは仕方ない。私も一瞬勝てるのかと思ってしまった。
結局ルークの裏切りによってヴィルは敗北する。(ただ、彼は己が真に美しいと思ったものに敗北を認めただけで、彼の行為を裏切りという言葉でくくってしまうのは残酷なことだ。彼は恐らく、これまで見てきた自分たちの努力と同じくらい、ネージュ達の努力を知っていたのだろう。)
それでも、「VDCに敗北しても、世界が認めなくてもなお、自らを美しいと立ち続けろ」というルークの言葉でヴィルの呪縛は解かれ、5章は幕を閉じた。私はめっちゃ感動してスマホを抱きしめた。

悪の努力は成果に結びつかない
とはいえ主人公たちの努力が成果に結びつかないのはやはり悔しいものだ。努力に対するカタルシスがないストレスは当然感じる。
母親にこれからも向き合わないといけないリドルが心配だし、レオナだってマジフトで勝ちたかっただろうにと思う。
詐欺とは言えあんなに頑張って集めた契約書を全部失ったアズールは可哀想だったし、カリムから離れたいというジャミルの叫びに対するカリムの「友達になろう」はどちらも辛すぎた。
分かっていたとはいえ、あんなに頑張ったのにVDCで勝てなかったのもやはり悲しい。
この辺りがストーリーへの消化不良に繋がっているのだと思う。

でも考えてみれば少しは何かが変わったのだ
リドルは少しだけ自分を縛り上げるルールを緩めた。
レオナは例え成果に繋がらなかったとしてもマジフトの朝練を始めた。
アズールは過去への増悪と自己嫌悪から、また立ち上がった。
ジャミルは本当の気持ちを伝えられた。
この先ヴィルは自分が認める自分の美を見つけていくだろう。
あのままヴィランが勝っていたら、彼らは己の執着に縛られたままで、きっと幸せにはなれなかっただろう。

悪ではない彼ら自身の物語
どんな境遇にも負けず、自分で幸せをつかみとっていくのは、ディズニーが伝える普遍のメッセージでもある。彼らの物語はようやくスタート地点に立ったばかりだ。
今までの悔しさやもどかしささえ、これから起こるカタルシスへの前置きではないかと期待している。
この捻じれた世界の終着点に、枢先生とディズニーが何を用意したのか見届けたい。

結局ヴィランだからこそ彼らが好きなのだ。自信家で、自分勝手で、恐ろしく強大で、残酷なカリスマをそなえた彼らが。
これからも何の反省もせずに自分勝手にふるまってほしい。
そんな彼らに振り回されるのが小さいころからの夢だったのだから。

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