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突然の泣き声が辺りを包んだ。あまりのけたたましい叫び声に相撲は中断され、

 突然の泣き声が辺りを包んだ。あまりのけたたましい叫び声に相撲は中断され、皆一様に声のする方を見た。小さな子供が泣いている。突っ立ったままの小さな足元は、片方が裸足であった。どうやら、片方の靴を川に落としてしまったらしい。流れる小さな赤い靴を、父親らしき人物が川の流れに沿って追いかける。なんとか追いついたはいいが、川端からは手が届かず、再び靴は流され、父親はまた走った。数十メートル先で、近くにいた見物人から長い枝を渡され、父親はなんとか靴を拾い上げた。顔をしわくちゃにして泣きじゃくる子供は、なわとびで遊んでいた数人の子供に囲まれ、よしよしとなだめられていた。
 幸尾と景子はその一部始終を眺めていた。赤い靴を見事拾った父親は泣き喚く娘に近づき、頭をなでた。よーし、よし、ほら、もう泣くんじゃない、お父ちゃんクック、拾ってきてやったから、な?そんな台詞が聞こえてくるようだった。幸尾はふいに涙が出そうになった。なぜだかわからない。が、涙腺が締め付けられ、頬がチチと痛くなる。
 隣に座る景子の顔を見た。うっすらと淡い色の口紅をさしている。絹のような白い肌は、幸尾のそれとは全く違っていた。景子の頬は、凍えるような冷気に一度も晒された事が無いような、そんな幸福さを漂わせていた。ふと、景子の頬が光った。幸尾はその時、景子の頬に白く光る一本の毛を見つけた。それは日光に照らされて一瞬だけきらめき、幸尾の目を瞬かせた。幸尾は景子の頬に指先を優しく当て、白い毛について伝えた。すると景子は、
「きゃー、恥ずかしい。これ、福毛っていうらしいの。母なんかは、縁起の良いものだから抜くなって言うんだけど、恥ずかしいからピンってやっちゃうんだけどね。忘れた頃に猫の毛みたいに生えてくるのよ。恥ずかしい、幸男君、見ないでよ」
 と、早口でまくし立て、手鏡を取り出した。福毛。幸尾はそれを初めて聞いた。縁起の良い異物。そういうものがあるのなら、自分のアレについても、縁起の良い何かなのだろうか。歓迎され、喜ばれるものなのだろうか。いや、そんなわけはあるまい。幸尾は思い直し、近くに咲いていた赤い花を摘んで、捨てた。

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