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無欲の勝利 

「もう30数年前になりますけど、甲子園で
優勝できたなんて、今でも信じられません。」
現在は街の小さな電気屋を経営している博史は当時を振り返る。
博史の通ったY高校は決して名門校ではなかった。
どちらかと言うと地域では進学校と呼ばれる高校で
甲子園大会の出場も創立60数年で一度もなかった。
練習も授業終了後の3時間だけだった。
1年生2年生の予選は、たしか1回戦か2回戦で負けたはずだ。
だから、3年生の夏の予選も
「1回勝てればいいかな」
と思っていた。
博史は、高2の秋からピッチャーだった。
「一番コントロールがいいから」
という理由でエースナンバー1を
普段は社会の先生の野球部長兼監督から手渡された。
 
1回戦2回戦と勝って、まさかまさかの連続で勝ち進んだ。
練習してなかったのが良かったかも知れない。
投げれば投げるほどタマが速くなった。
準決勝はノーヒットノーランで勝って、決勝も圧勝で甲子園出場を決めた。
 
甲子園でも誰も優勝候補なんて言ってくれないので
「今度こそ負けるぞ」
帰り支度をして旅館の女将さんに
「お世話になりました」
と監督も選手も大きな声でお礼を言って
甲子園口の旅館を出たのに、また勝った。
旅館に戻ると、女将さんも仲居さんも板前さんも
「あらまあ、また勝ちはったんやね」
と笑顔と拍手で出迎えてくれた。
そんな感じで毎試合帰り支度をして試合に臨んだ。
気が付いたら決勝だった。
当時はユニホームが一着しかなくて、
泥んこのユニホームで最後の試合に臨んだ
「今日こそ負けような。先生は・・うれしくて・・うれしくて
・・・みんなありがとう」
泣き虫の監督は試合前から涙をボロボロ流して
ミーティングにならなかったし
「それいけ・・・それいけ」
ばかり叫んでメガホン振るだけで試合中もずっと泣いていた。
だから、サインはメチャメチャだし
選手の名前は間違えるし散々の采配だった。
でも、それが幸いしてか緊張なんか全然しなかった。
試合が終わって校歌を歌っても、
ひとり大きな声で泣いている監督に
気を取られて涙が出なかった。
最後の試合も勝って、初出場で初優勝だった。
でも、大歓声の応援団の中に今の女房を見つけ、
生まれて初めて博史は、うれし涙を流した。
 
博史は、それからプロ野球に入って3年で肩を故障して
プロでは一勝もあげられずに引退する。
わずかばかりの契約金の残りで
祖父の代からの電気屋を改装して現在に至る。
先日、創立100周年を迎えたY高校は、
あれから30数年一度も甲子園の土を踏んでいない。
「プレイバック20世紀より」
 

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