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瞬撃手が解く、沖縄空手「基本の解明」 第二回 文/横山和正

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数年前から急速に注目を集めた沖縄空手。現在では本土でも沖縄で空手を学んだ先生も数多く活躍すろとともに、そこに学ぶ熱心な生徒も集まり、秘密の空手という捉え方から、徐々に地に足の着いたものへと変わりつつある。ここでは、多年に渡り米国で活躍し、瞬撃手の異名を持つ横山師範に、改めて沖縄空手の基本から学び方をご紹介頂く。





瞬撃手が解く、沖縄空手「基本の解明」

第二回 

文●横山和正(沖縄小林流研心国際空手道館長)



なぜ空手は違ってしまったのか?

 前回では、本土の空手と沖縄空手の違いについて書きました。
 では何故、本来その源が同じであったはずの空手が僅百年程の歴史の中で変化してしまったのでしょうか?

 それは簡潔に“空手という武道はその時代、環境、文化等に非常に影響を受けやすいものである”といった性質があげられるでしょう。
 言うなれば空手とは武道、スポーツ、精神修養、更に健康法、そして又は暴力に至るまで、他にも様々な形になる形態に成りうる多様性を内包しているからです。

 その性質を念頭に置いて空手を考えれば、空手が沖縄から日本本土に渡たった時期がまず上がります。奇しくも時代は文明開化を向かえた明治から大正、昭和初期を経て第二次世界大戦といった日本が歴史的激動のなかにあった時代だったことが、今日の空手の形を決める大きな要因であったと思います。

 明治時代と言えば武道界の歴史においても柔術から柔道が生まれ、それまで全国に散らばっていた様々な流儀の伝統的柔術が柔道といった自由乱捕りをふんだんに取り入れた新興武道の流れに飲まれていった時代でもあります。

 その様な時代に南の果てにあった沖縄から本土に流れ着いた空手は、柔道の創始者・嘉納治五郎にも認められ大きな気運を得て普及の第一歩を踏み出しました。
 しかし、こうした幸運を得たものの、既に皆さんもご存知の様に柔道が目覚しい躍進を遂げる中で空手はその陰を歩まなければならない宿命も負わされていたのです。

 富田常雄の『姿三四郎』に代表されるように、空手は絶えず“突き・蹴りを用いた一打必倒の妖術的緊迫感”をもって人々の脳裏に浸透していきました。そして、このイメージこそが戦後以降の空手の発展にも大きな影響を与えたと言っても過言ではないでしょう。
 組技を主格として体系つけられた柔道と、打撃を主格として体系つけられた空手。これは空手が日本本土で認知されるためには不可欠なものであったのです。

 更に空手は、新しく本土にあった日本武道界(柔道・剣道)のシステムに則して乱捕り、試合、段位制から道着に至るまでが採り入れられていきました。

 そうした流れのなかで、本来の武器術も含む総合的な古典的武術の訓練と、それらと同時に自己の心身の向上法(=探求)を目的とした鍛錬法であった型も、即、技術の枠に当てはめ、分かりやすい戦闘体系への関連づけが試みられ、他者との相対比較の概念を強く採り入れられました。その結果、いかに相手より早く、強くを求めるとともに、稽古体系もより整理された“格闘技・空手”といった新たなる価値観を生み出していきました。

 こうした時代の改変と異文化であった本土の洗礼を受け、空手は自己の開眼を基本に習得する個人的鍛練法から、より他者にとって判り易い内容のものに変化していったものと言えるでしょう。




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