見出し画像

カラダのコツの見つけ方 対談/甲野善紀&小関勲 第十回  「型」を遺すということ

この記事は有料です。

「バランス」に着目し、独自の指導を行っているバランストレーナー・小関勲氏と、古伝の日本の武術を探求しつつ独自の技法を展開している武術研究者・甲野善紀氏。お二人の元には、多くのオリンピック選手やプロスポーツ選手、武道関係者に音楽家までもが、時に“駆け込み寺”として教えを請いに訪ねて来られます。

 そんなお二人にこの連載では、一般的に考えられている身体に関する”常識”を覆す身体運用法や、そうした技の学び方について、お二人に語っていただきました。

 十数年に渡って親交を深めてきた二人の身体研究者が考える、身体のコツの見つけ方とは?

 第十回は、「型」の捉え方とその稽古方法について。「技はかかるかかからないか、型は成立するかしないか」の意味とは?

カラダのコツの見つけ方

第10回  「型」を遺すということ

甲野善紀、小関勲

構成●平尾 文(フリーランスライター)


「型」と「形」

コ2編集部(以下コ2) 先ほど、型の話がチラッと出ましたが。

甲野 型については、光岡英稔師範の「技はかかるかかからないかだが、型は成立するかしないかだ」という名言があります。これは、数ある光岡名言の中でも、ひときわ光を放っていると思うのです。型の意味は、この言葉に尽きると思います。

コ2 それは、どういう意味ですか?

甲野 技は奇襲された場合などに、きわめて際どいところで成立して、結果的に相手を倒せば、「かかった」ことになるのです。つまり、誰かが襲ってきて、偶然起きたラッキーなことで、結果的に相手を倒すことが出来ても「技がかかった」ことになります。ですが、型は、これとは全く違います。

 ある状況に入ったときに、「これしかない」という流れで成立するものが、本来の型の目指すところです。ですから、実際の立ち合いが型のようになることが理想で、相手もそれだけの力量があり、一つの見事な世界がそこに現出したということになると思います。

 例えば、棋士の羽生善治さんは、相手のつまらないミスで勝つと不機嫌になるそうです。つまり、一つ一つの勝負を、いい作品として後世に残そうとしているわけですね。相手のミスを「ラッキー!」と言って、勝負の結果に一喜一憂しているようでは、「一流」とはほど遠いでしょう。お互いが本当にいい勝負を後世に残そうとし、まさに流れが「これしかなかった」という手の連続によって成り立つ勝負が型でもあると思うのです。

 麻雀で20年間も無敗を誇った雀鬼、こと、桜井章一雀鬼会会長も、雀鬼とほとんど同じレベルの人と勝負をして勝ったことがあったそうですが、その時の事を「最後の最後、紙一重の運があったから俺は勝ったんだけれども」と話されていました。「今度は俺が勝つが、次はどうやっても、あいつが勝つ」ということの繰り返しで、お互い全くミスのない状況の中で、最後の最後、本当に紙一重の差で、持てる全ての力を駆使した結果、本当にギリギリで勝てた、と。

 ですから、私は、江戸時代末期においても、型に対する認識はちゃんと捉えていなかったと思うくらいですよ。なぜなら、剣術はバンバン竹刀を打ち合うことが大流行してしまったわけですから。

小関 空手もそうですね。皆、「型自体に、何か意味があるんだ」と一生懸命、型をなぞることや強化になりがちです。型を神格化するような、「型で不思議なことが起こるんじゃないか」みたいな感じで稽古をするんですけど、型を通して見えてくるものをちゃんと考えた方が良いと思います。

 それこそ、心道流の岸田純師範の空手は、型を通してその本質をしっかり伝えてくれますし、先ほどの光岡先生の名言ではないですが、型が成立するというのを体感・理解できます。

コ2 この連載で何度も出てくる、「上達しない人は真面目な人が多い」という話ですが、真面目な人は型を可能な限り正確にやろうとするわけですね。

甲野 型というより、表面的な形をなぞるのでしょう。だから、そういう人の型の捉え方は、次の展開を向かえるための必然性のある組み合わせ、としての型ではなく、ただ、手順を正確にやるため、みたいな感じのものになっちゃうんですよ。

小関 そこに、自分の中にある「生命」との関係性、協調性がないのだと思います。

ここから先は

4,653字 / 3画像

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?