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往復書簡:青葉さんへ。2通目

往復書簡2通目です。今回はこちらの手紙へのお返事です。


青葉さんへ。お手紙ありがとうございました。

青葉さんの子供の頃のお話を聞かせてもらって、それは僕も知らない一面で新鮮でした。なんだか嬉しいような。人の意外な一面を目の当たりにできたドキドキ感というか。

それに、他人からの評価を恐れる青葉さんが、ここまで自分のことを書いてくれたというのはとても勇気のいることだったのではないかと思うのです。そのことをまずありがたく思いました。

青葉さんって、結構こだわりの強いところがあるんですね。これだ!と自分の中で決まってしまったら、もうそこから離れられない。他のモノでは満足できない。でも、一度ハマってしまうとそれ以外考えられないというのは、ものすごくわかります。これがほしい!ってものが目の届く範囲にあるのに、それを諦めるってとても難しい。

タイプは違うかもしれないけど、僕もなにかと固執してしまうところがあります。家具とか楽器とか書籍とか、欲しいものに対して選択肢が複数あれば必ず比較をして、最適なものを延々と探してしまう。選んだあと、こっちのほうが良かった…となるのが悔しいんですね。延々と考え続ける体力と執念には自信があります。1位の最適解がないときは2位の妥協案を躊躇うし、そんなときは「じゃあ自分で作るか…」とかなんとか言い出して、DIYみたいなこと始めちゃったりして。自分の頭の中にある「これ!」へのエネルギーが絶えないのです。労力はかかるけどそれより諦めることへの嫌悪感、敗北感がすごくて。

だから、欲しい物を手に入れずして生きる意味ってなんだろう、くらいには思ってるんですけれども。

とはいえ、欲しい物を手に入れようとしすぎると、不幸になるという話は当然あります。何か相応の対価を支払わなきゃいけなかったり、自分だけならまだしも他の人を巻き込み、傷つけ、悲しませることになったり。

だから人間は、それを避けるために、譲れない意地と現実から要求される折り合いの間で生きている。

そんな誰しもが当たり前に受け入れている道理があって、その教訓として《恋愛と結婚は違うから、この歳にもなれば現実的な生活を送っていくパートナーを探して選んでいくことを重視すべき》であり、《他者の中に自分と通じる部分を見つけたり、良さをみつけていくことで一目惚れのような関係の始め方以外も訓練》することが大事だって話になる、んだと思うんですけれども。

* * *

「人の良さを見つけなさい」ってよく言われるけど、そんなにも大事なことかなと思うことがあります。というか、それは良いことなんですけど、人の性質を多角的に見たときにいい面悪い面があるというのは言うまでもなく当たり前の話です。

スペックとか関係なく、つまらない人はいる。原因という言い方をすれば、自分の感性に響かない相手に原因があり、「面白さ」の基準が凝り固まった自分にもある。お互い完璧でない人間なわけだし、他人と付き合う上で自分にも変わる余地があると認めましょう、自分を開拓しましょうというのは、話としてはわかります。

でもさ、これちょっと難しくないですか。平凡とも思えるユニクロを着て、でも良さを見出し、納得する。諦めるともいうのかな。主体的に興味を持ったり、対象の見方を変えながら《他者の中に自分と通じる部分を見つけたり、良さをみつけていく》アプローチ。開拓っていうと聞こえはいいけど、相手のことを頭で理解するような感じがして、「これだ!」という直感に対してちょっと弱い。無理やり納得している感も若干ある。好意的な見方を見つけて、ネガティブな見方が消えるかはまた別問題であるし、やはり最後は好みだって話にはなるし。

だから、本当に必要なのはそんなことじゃないと思う。
自分は人から評価されないぞ、あるいは、他人から評価されても大丈夫だぞ、ということを実感するために他人との関係がある。こうは考えられないでしょうか。

* * *

お手紙の中で、ちょっと気になった部分がありました。

 もしコートを買えたところで手にいれた喜びは儚くて、大金を使ってしまったことに落ち込み、いくらお気に入りの服を着ていたって、私のことなど誰も見ていない、気にしていない、そのことにとことん虚しくなっていたであろうことも容易に想像がついてはいるのですが。

ここはちょっと、単なる「どうしても、とあるコートが欲しい人」にしては変だなと思いました。何故って、どうして《一度手にしたのに購入しなかったことを猛烈に後悔》するほどのMameKurogouchiのコートをたとえ買えたとしても、「手に入れた喜びは儚い」になってしまうのか。それは、お書きの通り《私のことなど誰も見ていない、気にしていない、そのことにとことん虚しくなっていたであろう》ことに、気づいてしまったからです。

他者とはまず、私を評価するものであるとも書いてらっしゃいましたが、青葉さんの中には「客観的に見たら〜」という、他者からの視線がとっても強くあるのですね。自分はこう思う、これが欲しい、という意地はあるんだけど、冷静に考えたら誰も私を気にしないし、何のためにやってんだろう、と客観視点が頭をよぎってしまう。

そんなの、冷静に考えなくて良くない?とはじめは思いました。誰も気にしてないんだから好きな服着なよと。でも、現実にはそれで身を滅ぼしてしまうかもしれないし、他人の評価だって実際は考えてしまうんだから、それを考えるなというのは難しい。

おそらく、多くの人がこの「他人は自分を評価している」「他人は自分に興味なんかない(評価なんかしていない)」の両方を、若干矛盾もさせながら持っているんじゃないでしょうか。僕もよく、みんなあんまり僕に興味ないデショと思うことがよくあります。本当に興味がある、僕に評価の目を向けているかどうかは確かめようがないし…。"ある"と思うと何か思うように動けないし、気にしたって仕方がないじゃん、と。

だけどそれはそれとして、「他の人は僕を評価しない」が確信にまで至っているかというと、すこし不安ではある……いや、不安どころではないのか。本当はちゃんと怖いわけです。だって本当に人の目が怖くなかったら、「人の評価を気にしないぞ」って自分に言い聞かせないですよね。そんな保険をかける必要がない。

他人が自分を評価しているかどうか、興味を持っているかどうかは、他人の目を持っていないから僕にはわからない。どうせ他人はあなたに興味なんてないのだから、と(僕自身を含めて)世間は言うけれど、そうはいっても簡単じゃないよという自分がいる。

* * *

その上で、好きな服を着たほうがいいんじゃないですか。それは別に、誰も気にしてないから大丈夫だよと言いたいわけではなくて、「好きな服着てて良いんだ」と安心出来るまで他人の視線と向き合うことです。それに必要なのが、他人と関わって"視線"を実感することなのかはわかりませんが…。

少なくとも、青葉さんを取り巻く諸問題(なのか?)と他人との関連は、こういうことなのではないかと考えました。あまり、「まともな人間はこうしている」と考えすぎなくてもよいのではないですか?


2021/12/5
返信が遅くて申し訳なくなっている、真城ひろのより


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