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日記22 2022_1113-1119

おばんです。週に1記事、もしくは2週に1記事くらいのペースでざっと日々の出来事や雑感を書いてます。

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写真はその週に撮ったものを1枚。昼寝の目線。

20221113(Sun)
午前中は掃除や洗濯など家のことを済ませ、日記の打ち込みをしつつ1週間を振り返る。改めて日記については、快適な良いルーティンを作れたなと思う。
午後からは自宅用のコタツ機能付きリビングテーブルの設計に取り掛かる。工房で働き始めてまだ半年とちょっとだけれど、曲がりなりにも自分の手でできることが増えたのでDIY設計の幅が広がって楽しい。いい感じのおコタを作って年末を迎えたい。
夕方から久々に夜間現場へ。担当の職人さんの笑顔がとても印象的だった。警戒心でガチガチの自分の心を、この人はいい人だと一発で解す力のある笑顔だった。ありがたく、羨ましい笑顔。夜間現場は一晩中動き回っていないといけないのでなかなかしんどいが、何を食べて飲めば力が出るかというのは、学生時代より長く嗜んでいたオールナイトボウリングで研究済み。

20221114(Mon)
現場を無事終えて始発電車で帰宅。朝のほんのり明るくて澄んだ光の中眠るのは、他に替え難い気持ちよさがあってとても好き。
お昼に起きて読書、打ち合わせの準備、料理をこなす。
夜の打ち合わせでお客様から断捨離の話が出た。自分は断捨離はおろか、部屋をしっかり片付けることも好まない(し、できない)。断捨離とかミニマリズムといった動向は、情報過多な昨今の社会に対するカンターカルチャー的な側面があるのだと思うが、自分は不要な情報というノイズによる偶然とか無駄とか回り道みたいなものが好きだ。ファミレスや電車でたまたま近くにいた人の小話が面白かったり面白くなかったり、100均や薬局でなんとなく気になっただけで購入したものが良かったり良くなかったり、古本屋で安かったから購入した本をとりあえず本棚に並べて読んだり読まなかったり。そういう時間とか経験を愛してしまっている。それは、洗練された選択とはまったく無縁のところにあるものだ。それがいい。いつか誰かに片付けしなさいと怒られたとき、こんな感じで屁理屈をこねてやろうと思う。

20221115(Tue)
上手くいったと思われる作り置きと、お気に入りのコーヒー豆があるだけで、一人暮らしの寒い家に、カフェやファミレスを差し置いて、早く帰りたいという気持ちを抱いている最近の自分に驚く。この感じで将来、温かい家に愛する人と美味い飯が待っていようものならば、定時退社直帰を死守するいい旦那になりかねない。
シャワーを浴びるとき、シャンプーの泡立てをミスると、芋蔓式にコンディショナーの馴染ませも、ボディソープの配分も、洗顔の泡立てもミスるということがたまに起こる。それぞれの相関性はあまりないにも関わらず、である。この謎現象についてもう少し抽象化して何か教訓めいたものに仕立て上げようとするも、そこまで頭は回らず眠気に負ける。

20221116(Wed)
仕事終わりに映画を観るために新宿三丁目へ。待ち合わせより早めに着いたので世界堂で模型材料を物色。久々に行ったが、相変わらず店員さんのプロ具合には舌を巻く。見ていて気持ちが良い。
映画前に「草枕」のカレーで腹ごしらえ。お店での本格カレーは久しぶり(松屋を除く)。大変美味で幸せ。世田谷にいるとかなりの頻度でお店の本格カレーを食べる生活になっていたが、今はモツ漬けの日々である。もちろん、悪くはない。
映画『窓辺にて』を観る。序盤の「喧嘩とか手放すことは相手のため」というようなセリフがずっと頭から離れなかった。手放すことが、相手のため?終盤で二人でババ抜きをするシーンがあり、それはまさに自分の手札を手放すことが相手にとってあがりに近づくという意味でプラス1になっていた(ジョーカーだけはマイナス1)。なんとなく、そういうことなのかなと腑に落ちる。”手放すこと”が”人のため”であること。特に恋愛関係において、関係を進めることは、自分の何かを手放すことでもある。それは相手を思ってのことだったりする。結婚も不倫も、付き合うことも浮気も、自分の中で何からを手放して成立する別のステージであったりもする。今、自分は何に対しても”手に入れたい”を軸に生きているけれど、手放すことで、別のステージへ、軽やかに移ることができるようになったら、翻ってそれは、多くのものを手に入れられることになるのかもしれない。”手放すことは相手のため”と、手放すことに対して少し肯定的になれたとき、前に進める人生があるのかもしれないな。そんなことを考えたりした。とても好きな、素敵な映画でした。

20221117(Thu)
以前から時計が狂ったりと予兆はあったのだが、ノートパソコンを開くと「battery is bad」の文字が。そして一向に開かない。調べるとどうやら業者の修理が必要らしい。思い返せば7年半ほど使っていたのである。(よく頑張ってくれたなあ。)としみじみ思いつつ、諦めて画面をパタンと閉じる。同時に、自分の気持ちのどこかもパタンと閉じてしまった感覚になる。30年もののこちらも「battery is bad」なのかもしれない。こういう漫画みたいなことってあるんだと思いつつ、マズいことになりそうな案件を確認し連絡を入れるなどする。本当ならばこのまま誰かに後を全投げしてどこかへ行ってしまいたいが、残念ながらやれるかつやらなければいけないことはある。漫画みたいなことは、起こりそうで起こらなかった。

20221118(Fri)
在宅勤務の醍醐味であるお昼寝を堪能。お昼寝は至高。平日お昼寝猛烈推進委員会入りたいです。
トイレットペーパーが切れて交換しなければならないとき、(今かよ〜、もっと余裕ある時にしてくれよ〜。)と思うことが多いのだが、実は毎回そう思っているのではないかと気がつく。つまりは、余裕を持って用を足していることなどひと時たりともないということである。常にセカセカしている。これはとてもよくない。余裕を持って生きよう。まずはトイレットペーパー交換を余裕を持って受け入れるところから。
夜は高校の軽音部の仲間と飲みに。なんの気遣いもなく、楽しく、赤羽の金曜夜を堪能。いい時間。名高い立ち飲み屋に初めて行ったのだけれど、とてもいいお店であった。立ち飲み屋である以上、客単価ではなく基本的には数での勝負になるため、密度とデシベルは高くなるのだが、不思議とそのストレスがなく居心地が良かった。ホールの長であるおばあちゃんから滲み出る、言葉にし難い、表に出ている優しさと奥に隠れている怖さが絶妙にブレンドされたオーラが、客の質の向上に寄与していると思われる。

20221119(Sat)
明日、日曜の夕方までこれといった予定がなくなったため、初めてのソロでのキャンプに挑戦。
キャンプ場が神奈川の奥の方だったので、道すがら、観たい展示をやっていた神奈川県立近代美術館 葉山館へ向かう。大井JCTから幸浦まで首都高湾岸線を走ったのだけれど、やっぱりこれほど眺め応えがあってかっこよくてダイナミックな道はないなと思う。好天も相まって最高のドライブ。
美術館に到着し、まずはお目当てではなかったものの『マン・レイと女性たち』を鑑賞。ポートレイトというジャンルにおいて、初めて心から感嘆した。自らの作品とする支配や欲望が削ぎ落とされ、かといって被写体の個性を浮き彫りにすることに終止していない。人間を、ある風景として、あるいはオブジェ、客体として向き合い讃えていることことが伝わってくる。特に『ココ・シャネル』は本当にかっこよかった。
次にお目当ての『内藤礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している 2022』を観る。内藤礼は空間と造形作品を結びつけた、空間的な詩を生む天才だと思っている。今回の葉山における展示もその才はもちろん健在で、そこに詩が存在している空間というものは、人の心を、静かで知的な状態へと導く力があるのだなと改めて感じ入った。
展示に魅入ってしまったのと、渋滞を読み切れずで、予定よりだいぶ遅れてキャンプ場へ到着。さらに設営がまだまだ不慣れであったり、飯に気合いを入れすぎたりと、1番楽しみにしていた本を読む時間が想定よりも確保できず残念。が、生活圏から距離的にも心理的にも遠く離れた自然の中で、1人静かに時を過ごすということが、自分のとって格別な心の養分充填になることが発見できてとても嬉しい。そんなに頻繁にはいけないけれど、細く長く、大切な時間として続けていきたい。

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