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「本当は怖い民話」から人事を考える 第2回 姥捨て山と定年制度(前編)

民話と人事、第2回は姥捨て山にしてみよう。

姥捨て山は悲しい話だ。

そして昔話ではなくなるかもしれない。

僕たちは、これからの日本に、姥捨て山が生まれないようにしなければいけない。

姥捨て山をハッピーエンドのストーリーとして理解している人もいるかもしれないが、ハッピーエンド部分はあとから付け加えられたものであり、元の民話はとても悲しい。

姥捨て山の基本ストーリーは以下のようなものだ。

【基本ストーリー】

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老人を山に捨てる因習を持つ村がある。

息子が老母(あるいは老父)を山に捨てに行く。

老母(あるいは老父)は息子のために帰り道がわかる工夫をしている。

息子は親を捨てることができず、家に連れて帰る。

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老親を連れて帰るところで、基本的なストーリーは終わる。

多くの原話では、その先は語られていない。

二つの問いを考えてみよう。

姥捨て山は、非人道的な因習の村の物語だろうか。

老親を連れて帰ってきた息子は賞賛されるべきなのだろうか。

なぜこの物語が生まれたのか、その背景を想像してみると、問いに対する正解がないことがわかる。

物語の描写からは、定期的な干ばつなどの食糧難にさいなまされる地域において、働き手となりえなくなった年齢の人間を捨てに行かざるを得なかった状況が想像できる。

そのような状況が繰り返されることで、因習が生まれたのだ。

誰も非人道的なことをしたいわけではない。

そうしなければ、若者が生きていけないから、仕方なくそうしたのだ。

繰り返し繰り返しの環境要求の中で、それが因習となり、村に定着しているのだ。

そうせざるを得ない村の生産力や地域環境の問題を考えると、姥捨て山を非人道的な話だと断定することは難しい。

では、老親を連れ帰ってきてしまった息子はどうだろう。

そもそも、食べるものが足りないからこそ因習が生まれているのだ。

息子はどうやって老親の食料を工面するのだろう。

息子に妻や子供がいた場合、どう説明するだろう。

姥捨て山を描いた小説に、楢山節考というものがある。

この悲しみを文学に昇華させた物語だが、そこに救いはない。


生産力が低下した老人を集団から排除する、と言う仕組みは企業にも存在している。

定年制度だ。

現在の日本では、定年年齢と健康である年齢とがかい離してしまっているので、生産力があるにもかかわらず、生活の糧を得られなくなっている人を生み出す仕組みになってしまっている。

ほとんどの人にとって企業で働くことが生活の基盤なので、年齢を条件として企業を出ていかなくてはいけない仕組みは、まるで捨てられたような気持にもなるだろう。

平成25年の調査でみれば、日本の97.2%の企業が定年制を採用している。

諸外国はどうだろう。

良く知られている例でいえば、アメリカには定年がない。

1967年に法律で禁止されたから、どの企業も定年を制度にできない。

一方で、公務員への公的年金は55歳から支給される例もあり、退職と年金とは密接にはリンクしていない。

イギリスでも2010年4月に定年制は廃止された。

年金は国民保険から支払われるのだけれど、男性で65歳、女性は60歳からだ。(将来的には68歳まで引き上げられる。)

では日本でも定年制度は廃止されるべきなのだろうか。

(後編に続く)


平康慶浩(ひらやすよしひろ)