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初恋の結末(3,546字)

 結婚式を明日に控え、どうしても確認したいことがあって実家に帰ることにした。それを確かめなければ、自信を持って誓いの言葉を口にすることができないような気がしていた。
「本当に行くの?」
「ええ、行きたいの。お願い」
「わかったよ。でも式の準備もあるし、あまり長居はできないよ」
「それでもいいわ」
 婚約者は少し迷うような素振りを見せたが、車で家の近くまで送り届けてくれた。停車する車の中で待つと言う彼に、二十分で戻ると告げ、一人で家の中に入った。
「君の帰りを待っているよ」
 車の扉を閉めるとき、彼は慎重に言葉を選んで、そう言った。

 明日が挙式ということもあり、両親は式場の近くにあるホテルに泊まっていて、家の中には私しかいない。靴がすっかり片付いている玄関も、誰の声も聞こえない部屋も珍しく、違和感を覚える。大学進学のために実家を出て、もう何年も経つ。柱に刻まれている、毎年父が測ってくれた私の身長のしるしはすっかり薄くなって、今では姪や甥の身長が上から刻まれていた。
 へこんだ数々の溝に触れる。父は木のささくれで子どもたちが怪我をしないようにと、丁寧に柱の傷を削ってくれた。滑らかな丸みを帯びた溝が指の腹をくすぐる。私たちを見守って来たこの家は、今も静かな温もりを保っている。
 私はかつて、本当に小さな子どもだった。早産で、年の離れていた姉や兄と違い、生まれつき体が弱かった。外に遊びに行くとすぐに熱を出した。それでも外が好きだった。畳の上に敷かれた布団の中からは見えないものを、たくさん知ることができる。広がっていたのは果てのない世界。体が弱いくせに、何度も無茶をしては叱られた。
 庭には昔、大きな柿の木があった。縁側に続く廊下から、その場所を眺める。木は私が幼いうちに切り倒してしまった。もう今では、切株しかそこに残っていない。柿の木は、大冒険ができる格好の遊び場だった。木登りをしたこともあったし、石で落とした実を食べてみると渋柿で、ひどく後悔したこともあった。何でも体験してみたいと思い、誰の言うことにも耳を貸さなかった。そのくせに何でも知りたがった。大人にとっては、きっと厄介な子どもだった。私には、大丈夫だという自信があった。絶対に私は大丈夫だという、自信が。
 それが「彼」だった。彼は、私が苦しむことを何よりも嫌がった。木を登るとき、怪我をしないようにと後ろから支え、ずっと注意深く見ていてくれた。熱を出したとき、枕元で心配そうに手を握ってくれるのも、いつだって彼だった。幼い私と同様に、彼も幼かった。私たちはいつも手を繋いで遊びに出かけた。
 ふたりでいるとどこまでも行ってしまうから、迷子になって、明け方まで村のみんなが捜し回ってくれたこともあった。あの日、見つかった私を抱きしめて、両親は泣いていた。
 手を繋いだのも、男の子とふたりで出掛けたのも、キスをしたのも、ぜんぶ、彼が初めてだ。
 夏の西日は、どの季節よりも深い赤色をしていた。赤色に包まれた村は燃えているようで、田んぼで静かに立っている案山子も、私のことを家で待ってくれているはずの家族も、すべてが本物であるのか疑うほどの激しい不安を駆り立てた。大人に話したらもちろん笑われてしまう話だったけれど、私は本気だった。夕日が何よりも嫌いだった。
 大きな夕日が山のふもとに静かに、でも確実に落ちていく夏の日のことを、はっきりと覚えている。そろそろ帰ろうと促す彼の手を、強く握った。怖かった。息を殺して、じっと夕日を見つめていた。すると彼は、私の頬を両手で思い切り掴んで、押し当てるようなキスをした。キスの意味も知らない、幼いとき。寂びれた、公園とも呼べないほど小さな広場の、キリンのすべり台の足元で全身に真っ赤な西日を浴びながら。
 記憶の中はいつだって鮮やかだ。夢と間違ってしまうほどに。
 廊下の先には、階段がある。足を乗せると僅かに軋む音を聞いて、驚いた。階段は子どもにとってもっと高く険しいものであり、そして登るときには軽やかな音を奏でたはずの空間だった。家を出ても、結婚をしても、家のかたちはそこにあって、古さを増していく。そのことをすっかり、忘れてしまっていた。いつだったか足を踏み外して転がり落ちた階段を上りきると、熱を出すたびに寝ていた和室があった。扉を開ける。和室は、今はほとんど物置になっていた。それでも、私は扉に手をかけたまま、懐かしさで動けなくなる。週に一度はここで横たわって、熱のこもる体を持て余した。彼は必ずやってきて手を握った。夏でも、冬でも、冷たい手をしていた。彼が来てくれたら安心できた。もう大丈夫だと思うことのできる、あの大きくはなかった薄い手のひら。
 思えば、私たちは多くの話をしなかった。彼が語ることを好まなかったのも、理由の一つだ。話をしようとすると、大人は眉をひそめて私たちを見た。だからいつも手を繋いで、黙って、目立たないようにしていた。変わった子だと、よく言われた。何よりも、ほとんど怪我をしなかった。よく熱は出したけれど、木に登ってもすり傷ひとつ作らなかった。階段から転げ落ちても、尻に薄い青あざを作った程度で済んだ。迷子になったときも、明け方近くまで外にいたというのに風邪をひかなかった。不思議がる両親をよそに、私は、その理由がわかっていた。大人にはきっと、わかってもらえないということも。
 初恋は実らないと言う。実らない方が、幸せになれると言う。
 彼が好きだった。絶対的に信じていた。私の信じていた通り、彼は私のことを一番に守り、そして大切に想ってくれた。私の初恋は確かに実ったはずの幼い恋だ。そうして、いつの間にか終わってしまった。七歳になった私に、彼の姿は見えなくなった。いなくなってしまった、ではなく、見えなくなったのだと知っていた。彼がそれからも私を見守り、家を離れるまでずっとそばで支えてくれたことも。
 家の中にある彼の思い出を、ひとつひとつ丁寧に思い出して、玄関に向かった。冷たい石畳の上には、履いてきたベージュのパンプスがある。かつてあそこには、ヒールなんてない泥だらけの赤いサンダルが置いてあった。歩くたびにぽきゅぽきゅと軽快な音が鳴る、彼の褒めてくれたサンダルが。子どものままで生きていけるネバーランドで暮らしていくことが、私にはできなかった。気付けばいつしか、彼よりもずっと大人になってしまった。
 時計を確認する。ゆっくりしていたつもりはなかったのに、約束の二十分は過ぎようとしていた。
「ねえ」
 玄関に座って、パンプスを履く。呼びかける声は少しかすれた。緊張していた。
「私とのファーストキスの思い出って、まだ残ってる?」
 誰もいない家の中に、そう問いかける。
「キリンのすべり台」
 どこからか、声が聞こえた。恐怖はなかった。懐かしい気持ちが胸いっぱいに広がる。

 大人には、彼の姿が見えなかった。私はいつも一人で遊んでいる子どもだったと、後に母から聞かされた。迷子になって明け方まで帰ってこなかった日は、きっと神隠しにあったのだと噂されていた。七歳までは神の子だから、あの子は山の神様に連れて行かれたに違いない、と。それは大きな間違いだった。彼は私の家に住んでいた。恐らく、私が生まれる前から。私が愛されたのは、山の神様ではない。神様であったのかも、わからない。だが、彼がどんなひとであっても、関係のないことだ。人ではなくても、幼いとき間違いなく彼が好きだったし、彼もまた、この家で育った私のことを愛していた。
「覚えていたのね。ありがとう」
 懐かしい愛しさは恋が終わっている証だと、大人になった私は知っていた。
 背中を押されたかった。初恋が確かにあったことを信じたかった。彼の存在をもう一度感じることで、私はこの家から去っていく決心が、ようやくできた。彼が今もまだここに居てくれているのか、それとも消えてしまったのか。今日は、それを一人で確かめに来たのだ。幼いころのすべての思い出を持って、この先も大人になっていくために。
「あなたのことを、愛していたわ」
 ゆっくりと、言い聞かせるように呟くと、柔らかな風が唇のあたりをかすめた。姿は見えなくても、わかった。彼からの最後の言葉が聞こえた気がした。
 玄関を出て、婚約者の待つ車に向かう。歩く私の姿を見とめて安堵した表情をする彼のことを、心の底から愛おしいと思う。
 明日、このひとと結婚する。もう揺らぐことも、振り返ることもない。出発する車に乗って、ひとつだけ、最後にわがままな願いを思う。

 確かに美しいままで終わりを迎えた、たとえ実っても叶うことは絶対になかった私の初恋を、どうかあの彼だけが覚えていてくれたらいい。

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