見出し画像

私が花を選ぶまで(3,979文字)

 バス停の前で、彩香はひとり立ちつくしていた。早起きして軽く巻いてきた髪も、今日のために新調した白いフレアスカートも、パンプスに隠れてはいるが、ひそかに気合を入れて塗って来たピンクベージュのペディキュアも、何もかも全部、無駄になってしまった。
 付き合いはじめて、二ヶ月。
「墓参りに行きたいんだ」
 智弘にそう言われたのは、十三時に予約した吉祥寺のカフェでパンケーキを食べていたときだった。その言葉を口にするまでの彼はどこか落ち着きがなく、腕時計を見てはため息を吐くことを繰り返していた。一重のまぶたはいっそう重たく見え、眉間には深い皺が寄っていた。
 何か言いたそうにしては口をつぐむ、彩香に向けられる視線が訴えていることを、わからずにいた。だから、自分との関係に早くも飽きてしまったのではないかと、不安が膨らんでいた。焦りのせいで自然と饒舌になり、手のひらにはしっとりと汗をかく。彼に気づかれないように注意しながら、何度もスカートで手のひらを拭った。
 話題も尽きて困った頃、智弘はようやく唇を開いた。彩香の顔色をうかがうように、眉根を下げた表情をしながらジャケットのポケットから取り出したのは、小指の爪にも満たないもの。手のひらに乗せた小さな塊はところどころ塗装が剥げ、音が鳴り響くための溝がへこんでしまっている。それは間違いなく鈴だった。
 チコ。鈴の持ち主を、彩香は知っていた。智弘から話に聞いていた、昔の飼い猫。
 鈴を見つめる彼の目尻はゆるやかに下がり、口角は満ち足りた日々を思いだしてか、僅かに上がっている。彩香にはまだ向けられたことのない表情を見てしまって、言葉に詰まる。
 今日の智弘に感じていた違和感は、すべてかつての飼い猫に対して憂いていたからだと知った。彩香は安心し、そして同時に、自分を目の前にしながら死んだ猫のことをずっと考えていたことに対して、嫉妬した。
 十五年間、懸命に生きた。好奇心旺盛で、智弘の家族からの愛情を一心に受けていたチコ。彼女がかつて子猫だったとき、この鈴は恐らく金色だった。
「昨日、部屋の掃除したら、ベッドの下から出てきて。命日、今日だったなって」
「そうだったんだ。ずっと気にしてたなら、早く言ってくれたらよかったのに」
「でも、そんなこと彩香に言ったって」
 智弘の言葉に悪気はない。だから彩香は返事に困ってしまう。無意識の拒絶ほど恐ろしいものはないが、彼の言うことは正しいからだ。彼とチコの間にあった時間は彩香と無関係で、入りこむことも、共有することもできない。
 震える指先を隠すために携帯電話へ手を伸ばし、汚れていないのに何度も画面を袖で拭った。彼が今どんな目をしているか、知ることが怖かった。冷えた視線を向けられた時に、席を絶対に立たない自信がなかった。画面に集中している振りをしながら、彩香は泣きそうになるのをこらえた。
 乗換案内のアプリケーションをタップして、視線を落としたまま智弘に声をかける。
「チコちゃんのお墓、どこにあるの?」
「動物霊園なんだよ。ここからだと電車とバスに乗らないといけない」
「じゃあ、夕方になる前に行かないとね」
 行き場のない嫉妬心には蓋をして、智弘の申し出を表面上では快諾した。パンケーキを食べ終わった後、サービスのコーヒーを断って二人は店を後にした。
 猫の墓参りには、猫缶と花束どちらが正しいのだろうか。
 電車に揺られながら、彩香はぼんやりと座る智弘の肩に寄りかかっていた。窓から見える景色から桜がなくなっていること、そして、車内の空調が暖房から冷房へ戻っていることに気がつく。どうでもいいことを考える余裕が、まだ彩香にはあった。
 しかし駅につくと、智弘は彩香と目を合わすこともなく言った。
「俺、チコに会ってくるから。彩香はどこかで時間つぶしててよ」
「なんで」
「なんでって、なんでも。彩香はいいじゃん」
「いいって、何が? チコちゃんのお墓参りでしょう。連れていってよ」
「いや、ごめん無理。彩香はまだ来ないでほしい」
 智弘のそれは、はっきりとした拒絶だった。
 当然に着いていこうとしたことを後悔しても遅く、引き下がるしかなかった。悔しさだとか、不甲斐なさだとか、様々な感情が入り乱れて、ざわざわと波打つ心臓を落ち着かせるために唇を噛む。
黙る彩香へ智弘は腕を伸ばそうとして、ゆっくりと下ろした。
 そして、申し訳なさそうな表情で、彼はひとりでバスに乗ったのだ。行ってしまったバスを見送って、彩香が帰るか待つか悩んでいると、後ろから声をかけられた。
「彩香?」
 聞き覚えのある声に振り返る。そこにいたのは、大学の同期の瑠璃だった。
「普段と髪型違うから自信なかったけど、やっぱり彩香だ。それ巻いたの? 似合うね」
「瑠璃? なんで」
「言ってなかったっけ、ここらへん地元なの」
 瑠璃は手ぶらで、パーカーにジーンズというラフな服装だ。化粧も薄く、ヒールを履いていないためか、大学で会う姿とは違った雰囲気が新鮮だった。
「こんなところでどうしたの? 待ち合わせ?」
「ううん、智弘と一緒に来たんだけど、一人で猫のお墓参りに行っちゃったから。私は置き去り」
「へえ、デート中にお墓参りか。面白いね」
 八重歯を見せて、パーカーのポケットに両手を突っこんだまま素直に笑う瑠璃の脇腹を、「他人事だと思って」と小突く。彼女は変わらず笑いながら、静かに身を捩じった。
 瑠璃は、言葉で自分を飾らない。だから彩香は安心して付き合うことができる。日陰に移動しようと促され、二人は並んで歩き出した。
「で、そっちは何してるの?」
「ああ、猫探し。うちの子、すぐ家出するんだよね。どこかで青い首輪の付いた黒猫、見なかった?」
「ごめん、見てないや」
「まあ放っておいても、そのうち帰ってくるかなあとは思うんだけどさ」
 携帯電話で時間を確認し、指先で軽くいじった後、ジーンズのポケットに押し込む。欠伸をする瑠璃のポニーテールを、猫じゃらしに似ていると思いながら見つめた。
「ねえ瑠璃、猫と暮らすのって楽しい?」
「彩香は動物を飼ったことがないんだっけ。楽しいよ、すごくね。今日みたいに振り回されてばかりだけど」
 写真見る? と聞かれて、丁寧に首を振った。もし犬だったら見たかもしれない、と思ったが、口に出すことはやめた。
 瑠璃は横目で駅前の草むらを確認しながらも、あまり心配をしていないように見える。その様子は、本当に、必ず自分のところに帰ってくる自信があると言っているようだった。彩香は羨ましくなる。その自信が欲しいと思いながら足元の小石を蹴った。
「瑠璃は猫が好きなんだね」
「好きだよ。ずっと一緒にいるからね」
「あのさ、猫を飼っている人って、みんな猫と恋愛できるのかな」
「猫と恋愛?」
「お猫様が相手じゃあ、根本的に外見で敗北だよ」
 消沈する彩香と肩を並べながら、怪訝そうに瑠璃は言う。
「一体何があったのかわからないけど、人間と猫って、比べるものじゃなくない?」
 彩香は強く首を振ると、感情的にならないように返事をした。泣いてしまいそうだった。猫に妬くなんてばかばかしいと、自分でもわかっている。
「今ちゃんと目の前にいて生きている彼女より、死んだ猫を優先するって、どうなんだろう」
「どうなんだろうも何も、猫は家族でしょう。死んだ家族を大事にするんだよ、いいやつじゃん」
「確かにいい人だよ。智弘、チコの写真を前に見せてくれたんだよね。チコって、すごく綺麗な猫だった。真っ白で背中がすらっとしてて、メロンソーダの飴玉みたいな大きい目で、可愛かった」
「まあ猫だしね、かわいいよね」
「半年前会った私よりもチコのほうがずっと長く智弘の側にいたんだと思うけどさあ、でもさあ。死んだ人には一生勝てないって恋愛の中ではよく言われるけど、まさかその相手が猫だなんて、複雑すぎる」
「面倒くさいなあ。じゃあ相手が人間だったら納得いった? 猫じゃなくて犬だったら? 彩香は、自分より大事にされてる気がして、その猫が羨ましいだけなんだよ。死んじゃった昔の彼女が忘れられない、なんて話は実際にもあるんだろうけどさ。猫と人間は完全に違うよ」
 何を妬いてるんだか、と呆れた顔で瑠璃は言う。弱気になって唇を尖らせることしかできない彩香を鼻で笑う。
「家族に向けるものは、恋じゃなくて愛でしょう。たとえば猫に一方的に恋することはできるかもしれないけど、猫と相思相愛の恋はできない。人生で一番長く愛してたから、大事なんだよ。単純な話でしょ」
「恋と愛の区別って話は、一番難しいよ」
「それ以上何を疑うのかもうわからないけど。でも、今の智弘の人間性は、そのチコちゃんと過ごしたことで出来あがったものなんだと思うよ。信じるだけじゃ駄目なの?」
 瑠璃の言葉は正しかった。
「ううん、なんか、なんだろう。まだ納得はできないけど、瑠璃の言う通りなのかもしれない。今まで智弘を支えてきたのはチコだし、一番長く一緒にいた血の繋がらない存在もチコなんだよね。誰かと付き合っていくって、過去ごとその人を好きになるってことなのかな」
「たぶんね」
 少しだけ気持ちが軽くなって携帯電話を見ると、新着のメッセージがあった。差出人は智弘だった。
「チコに彩香の話をきちんと報告したから、改めて紹介させてほしい。さっきはごめん」
 このメッセージで十分だった。彩香は肩の力が抜けていくのを感じた。
「会わせたいって言ってくれたから、お花買って次のバスに乗る。ありがとう瑠璃」
「なんだ、何も心配することないじゃん。馬鹿みたい。花選ぶなら手伝うよ、暇だし。うちの子もそのうち見つかるだろうし」
 バス停の時間を確認してくれる瑠璃に感謝しながら空を仰ぐ。暮れ始めた空が綺麗だったから、嬉しくなった。一瞬曇ったけれど、これならもう、大丈夫だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?