受験もオーディションも難化する

先日のニュースで、2025年春のNHK朝ドラはオーディション、という記事がありました。

出演者が決まったのならともかく、再来年のドラマの主役の選び方だけで一つのニュースになるのは、それだけ影響力や需要があるのですよね。

オーディションになっても結局は大手事務所での実績経験のある人が選ばれるということになるとも言われていますが、オープンな選考方法でも結局合格者層が決まってくるのは、ドラマのオーディションだけの話ではありません。

東京大学の合格者層の親が高所得者が多く、小さいうちからひたすら受験勉強し続けている子が多いというデータは明らかになっています。格差の拡大という社会問題として捉えることは重要ですが、そもそも入学試験は過去の問題を対策して挑むものであり、年々対策は高度化していきます。そうなると、対策を立てられる(あるいは対策を「買う」ことが出来る)層が有利になるのは当然で、そういう対策済みの受験者が簡単に解けない問題を年々作っていくうちに、受験漬けでないと合格できないように難化していくものです。

それは東大受験だけではなくて、ポピュラーな資格試験でも同じです。司法書士試験や行政書士試験なんかは昔より相当に難しくなったと言われています。簿記でも昔よりは難化したそうです。

多くの人間を受験地獄に陥らせたと言えば、中国の科挙が有名ですが、これも隋唐期に導入された頃はまだ貴族層の受験は少なかったものの、宋代に入ると貴族層でも必死に対策して受験するようになっていました。民間からも地方の天才が集まってきますので、さらに難化していくわけです。

ひたすら続く難化傾向を放置せず、改善をするとしたら制度自体をイジるしかありません。司法試験のロースクール制度なんかはまさにそうです。それでも、予備試験合格組が増えてきてロースクールの意義が問われ始めていますので、またそのうち抜本的な改革をするでしょう。

制度をイジると言えば、科挙に関して言うと、宋・金の滅亡後の元の時代には科挙が廃止され、従来科挙を受けていたような知識人層が民間に留まったため、文学・戯曲なんかが盛んになったという一面もありました。思わぬ副産物といったところですが、本人は科挙を受けたかったでしょうね。

あるいは、合格者を思いっきり増やすとかもあります。合格の価値そのものを減らすということです。昭和後期の受験戦争が厳しかった一方で、大学を増やし続けて大学合格者を増やしたことは、ある意味その理屈に基づいています。これからは大学を減らしていくことになるでしょうけれど。

受験者数という需要が減るか、合格者数という供給を増やすか、あるいは丸っきり廃止、新制度導入としてしまうか。

受験にしろドラマのオーディションにしろ、基本的には年々、難しくなっていき、未対策で臨む素人の余地は無くなっていくものですね。

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