東京オリンピックは奪われるべき財貨なのか
汚職・収賄事件のニュースに接すると改めて思い起こす故事があります。
以前にも私のnoteに書いたことがあるのですが、古代中国春秋時代の子産という人物に関するものです。
詳細は上記リンク先にありますが、
という箇所は、そこまでしてお金を不当に奪い稼いで果たして本当に幸せになれると思っているのか?と毎度のことながら疑問を覚えてしまいます。
「象が象牙を持つためにわが身を滅ぼすのは、それが財貨だからです」
とありますが、罪のない象ですら財貨を持っているだけで殺されて奪われるのに、罪を得て稼ぐ人は一体どのような不幸が我が身とその子孫に待っているのかと、他人事ながら畏れます。
あいつはこちらの富を奪って生きているのだ、と思われるのと、
あの人のおかげでこちらは生きていられるのだ、と思われるのとの二択で、前者の方を躊躇いなく選ぶ人が賄賂をガッポガッポと得るのでしょうけれど、それを羨ましいと思う気持ちもまた悪ですし、実行するのはさらに悪に悪を重ねることになります。
立場的に収賄が出来る人というのは、おそらく他人が収賄で懐を暖かくしているのを横目で見る機会も多いのでしょう。そこで告発や密告などまでは出来ないにしても、そこで自分も流されて収賄する側に走るか、その立場にあり続けながら身を律するか。大半の人が後者になっているかも知れませんが、前者も根絶することは出来ないのでしょう。
国家的ビッグイベントともなれば、動くお金もビッグになり、それにつれて汚職の単位もビッグになります。
オリンピックを象が持つ象牙に仕立て上げたのは誰でしょうか?
「オリンピックはこちらの富を奪って実施されたのだ」と思われるようにしたのは誰でしょうか?
先に述べた、子産の
「あの人のおかげで生きていると思わせるようになりなさい」
という進言は、箴言でもあります。
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