情報ミニマリストと情報ゴミ屋敷

物が少ない時代においては、物を多く持っていることは豊かさ、少なくとも経済的な裕福さの証しでした。しかし今では、金持ちほど部屋や持ち物は少なくなりました。ミニマリストのみならず、物が自宅や自室、カバンやポケットに溢れかえっている金持ちはあまり見かけません。

逆に、物が多すぎる人は貧しいとまでは言わないでも、裕福とは言えない人である証しとも言えるような時代です。いわゆるゴミ屋敷を例に出すのはやり過ぎかも知れませんが、物を厳選して整理整頓することと、経済的に成功することに必要な資質に関連性はあるでしょう。

大量生産・大量消費の時代を過ぎると、物をたくさん持っていることは経済的裕福さの証しでは全く無くなったわけです。ミニマリストはその一つの現れです。

では、情報についてはどうでしょうか。

かつては情報も貴重なモノでした。「知識人」という言葉が示すように、「知識」を持っている人は限られていました。しかし、質はともかく量だけなら、ほとんど全ての物事に関する知識をインターネット経由でわずか数秒で目にすることが出来ます。

「蔵書家」という言葉もあまり聞かなくなりました。書籍以外からも大量の情報を得られる時代であると共に、蔵書もこれから出る本については電子書籍でほぼ全てカバー出来ます。蔵書の多さも知識の豊かさの担保では無くなりました。

情報・知識を自分の脳内に大量に所有していることは他人との差別化というメリットではない時代になったわけです。逆に、SNSの悪影響を取り上げるまでもなく、余計な情報を受け入れすぎることによって、生きる上でのマイナスなことだって起こり得ます。自分の頭の中で情報を雑多に詰め込みすぎて整理できなくなってしまうのは、情報のゴミ屋敷のような状態と言えます。

むしろ、多数の情報から厳選する能力が必要になる時代でしょう。情報に関するミニマリスト的なアプローチも出来るようになっておかねばなりません。大人にとっての心構えだけではなく子どもに対する教育自体も、情報が少ない時代に通用していた教育法から変えないといけないかも知れません。

情報は新しい方が良いというのはGoogle検索結果の順位付けの一つですが、新しい情報に価値があるということは、その情報はすぐに陳腐化して役立たずになることの裏返しです。

逆に古い情報の中で現代でも残っているものは、時代を超えて通用する情報であることの証しです。100%そのままで通用するわけではないでしょうけれど、時代に合わせてアップデートしていきながら、将来に受け継いでいけるはずです。

良いものは長く使えるということは形のない情報よりも、形ある物品の方が分かりやすいはずです。

安かろう悪かろうの商品は長持ちはしません。逆に良いものは長く使えますし、もし欠けたり壊れたりしても修理して使い続けるのも無理ではありません。安物は修理自体が前提とされていないものも多いです。

修理できる権利を消費者に認めて、メーカーへの10年修理可能の義務を課す決議がEUで採択されましたが、本当に価値あるモノは修理してでも使いたいはずです。

情報だって同じことで、価値ある知識・情報は時代を経ても通用し続けます。質の高い情報を厳選するのは難しいかも知れませんが、誰にでも出来るのは古典を読むことです。

古典の文章をそのまま文字通りには現代社会に適用できないでしょうけれど、エッセンスを取り込み今に合わせて解釈し直せばいいだけです。それはまさに「情報の修理」であって、それが出来るということは逆に「古典」が古典たる理由と言えます。

500年前の古典を200年前の人が大事にしていたのであれば、現代の人にだって大事にして通用させることは出来るはずです。単なる懐古趣味ではなく自分が生きる上での道徳律として生かしてこそ、厳選した情報を活用していると言えるのではないでしょうか。

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