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カンガルーについての一考察

高校二年生の冬に書いた小説
以下本文

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カンガルーについての一考察


有袋類は、はたして形態から自由なのか、不自由なのか。思考のうわべの部分でずっと考えている。膝を掻く。血が出る。左膝だけに茶色いカサブタが増えていく。カンガルーについて考える。それも、本当に考えているわけではない。小学生が将来の夢を考える程度に儚い。何分、何時間こうしているんだろうか。今は一体何時なんだろうか。地下鉄のホームの椅子に座ったまま、膝を掻き続ける。脳に流れる副音声を無視する。副音声は渓流のように流れ続ける。多大な情報量。カンガルーについて考える。それで、けたたましい現実(あるいは自分)をごまかす。5分程度座って考えていたようにも思えるし、もう何年もこうしているようにも思える。小さい子がやるように周期的に足を前後させる。疲労感だけがたしかに存在している。ここでは時間という概念を無視したほうがよいかもしれない。僕が扱うには難しすぎる。少なくとも今の僕には…。

 くたばっちまいたい。クタバッチマイタイ。そんな言葉が副音声の中から選び出される。僕はこの響きが気に入った。それから何回か暗唱した。単純で、少しおどけたようでありながら、鬱憤を晴らすような感じがする。乱暴な響きであるはずだが、優しい言葉のように思える。くたばるか?そう思い立って、目の前の転落防止のドアを眺める。お前には無理だよと言われたような気がする。実際、無理である。自殺するにしろ、生きるにしろ、この場所から動くにしろ、今の僕には不可能であった。立ち上がることも、膝を掻くことを止めることも、目をほんの少し動かすこともできずにいた。根本的な気力が足りなかった。ため息を吐けなかった。そうしてまた、有袋類の事を考えたりして、現実の選択から目を背けるほかなかった。ユウタイルイハ、ハタシテケイタイカラジユウナノカ、フジユウナノカ。この疑問を暗唱する。実際は、ユウタイルイについての予備知識は全くなく、質問の意味さえわからない。安部公房の本で読んで、ずっと頭に残っていたのだ。形態というのはなんなんだろう?ジユウ、フジユウ…。カンガルーやコアラのほのぼのした顔を思い出し、ジユウなんではないかな?と思う。少し嫉妬する。

 形態という事を考えると。カンガルーは不自由なのかもしれない。僕はずっと勘違いしていたのだが、有袋類は胎生の動物より先に誕生したらしい。図鑑で読んだ。てっきり進化の過程でポケットを持つようになったのだと思っていた。胎生の動物のような優れた胎盤を持たないから、淘汰されてしまったようだ。オーストラリアは独立した大陸だから、まだ有袋類が暮らしている。もし、オーストラリア大陸に他の胎生の動物が次々と上陸したら、有袋類はきっといなくなってしまうのだろう。一瞬、血まみれのカンガルーを想像して、可哀想で身震いする。恐ろしい妄想だった。それに、カンガルーが負けるなんてにわかに信じがたい。もうこの妄想はやめようと思った。逆に、ボクシングのグローブをつけたカンガルーが、人間をボコボコにしている様子を想像してみた。ふくらはぎの筋肉を張り詰めたカンガルー。血濡れたグローブ。カンガルーの殺人現場を目撃してしまう僕。カンガルーが若干ふりかえり、僕を片目で睨む。なかなか、ポップで芸術的な光景だなと思った。映画のポスターなんかにしたらいいと思う。カンガルーには強くあってほしい。

 殺人カンガルーの妄想をしてから、少し元気が出てきた。その残虐な光景と共に、少し鬱憤の雲層が薄くなったようで、やかましい副音声がだいぶ薄れてきた。それと共に、自分の喉がかなり渇いていることに気づく。やはり、相当な長時間座っていたのだろうか…。だが僕は構わず座り続けた。動く元気などないようだ。自分に無理をさせる気もない。僕は調子に乗って、さらに突飛なカンガルーの妄想をする。カンガルーの進化を考えた。カンガルーは尻尾で立つようになるかもしれない。喧嘩する時などにカンガルーは尻尾で体を支えることがある。それで、強烈なキックを放つのだ。そんなカンガルーが尻尾で立つようになる。それは、争いを止めることを意味する。バネのような太ももは役目を失い、ふわふわになる。胎児のように丸くなる。この姿勢のカンガルーは一日中物思いに耽れる。どんどん賢くなり、地球上で一番の知的生命体が尻尾で立つカンガルーになる。なぜなら、カンガルー達は平和で相互に争わないから。人間は小規模でも大規模でも常に争い合い、精神を削りあっている。カンガルーは時々立ち上がって、周囲のカンガルーに水や食事を与えて回る。動かないから水も食事も少なくて済む。人間のように産業を必要としないから、資源問題や燃料の問題を考えることがない。カンガルー達は助け合い、地球に無害なまま繁栄する。いい妄想じゃないかと思った。そういえば、tempalayの曲に「カンガルーも考えている」という曲があった気がする。なるほど自分はそれに影響を受けたのかもしれない。どうして今まで気づかなかったのだろう。独特なベースラインと壊れてしまったような最後の盛り上がりを思い出す。なかなかいい気分になった。そうか、僕は今まで、安部公房とtempalay に影響されていたのだ。周囲の人間より疲れやすく、痛みやすいのだから、せめて想像力くらいは特別であると思いたかった。膝を掻く力が強くなる。カサブタが取れて血が出た。その彩度の高さに驚く。女声のアナウンスが聞こえて、地下鉄がホームに滑り込む。風圧を受ける。人が何人か降車する。その反作用で地下鉄が微妙に揺れている。プシュー、プシューと音を立てる。暗いホーム内のそこだけ明るい電灯を、鉛色の車体が鈍く反射する。揺れに合わせて、チラチラ模様が変わる。そんな様子がなんとも動物じみているように思える。僕は畏怖の念を抱いた。

 カンガルーの妄想が崩れ去ってしまったあと、地下鉄が到着した時の音の衝撃もあって、僕の副音声は増大した。僕の脳に響く文章の数々は、音量も量も耐えきれないほどになった。苦しかった。がんじがらめの思考がガンガンと内側から頭蓋骨を打った。副音声は自分だけの自分の声である。文字を読んでる時に聞こえるような、聞こえないようなあの声だ。僕の悩みは一般的な人には毛程でもないことが多い。僕は恵まれた環境にいて、僕より辛い状況で頑張っている人は山ほどいるのだ。世の中の創作物の大半は辛い人にはそれなりの理由がある。現実でもそうだ。いじめ、病気、トラウマ、離婚、貧困、過労、失恋、事故、失職、死別。とても道徳的に悪い言い方だが、これらは心を病む真っ当な理由だ。僕にはこれらがない、幸運な環境にいる。それでも僕は辛いと思ってしまう。分かってほしい。だいたいはこの副音声のせいだと思う。今すぐ頭を掻きむしりたいような、大声をあげたいような、白目を剥きたいような衝動に駆られる。実際にはそれらを行う気力もなく、ただ座って膝から出る血を眺めている。「カンガルーも考えている」の壊れそうな最後の部分が頭に流れ続ける。膿の匂いを嗅いで、意味のわからない安心感に浸る。頭がクラクラし、呼吸が荒くなる。僕は辛い。

 気がついたら僕は床に仆れていた。目の前には埃と、転落防止柵と、点字ブロックのみ見える。床はひんやり冷たかった。起き上がる気力もなく、僕は全力を尽くして寝返りを打った。頭が痛む。椅子の土台の部分が見える。マッキーで書かれたような落書き、靴との摩擦跡、ガムのゴミ、小さいクモなどが見える。その奥、椅子の反対側に、カンガルーの真っ黒な目が見えた気がするが、幻覚であった。ふと、僕は自分の右脇腹あたりに蓋のようなものがあることに気づく。取手を回して持ち上げる様式になっていて、体育館のバレーの支柱を入れる穴に似ている。丸型で、大きいところがそれとは異なっている。マンホールほどのサイズで、人が入れそうであった。内側からかすかに、一定のリズムの機械音が聞こえる。なんとなく、ゲスの極み乙女。の「息をするために」のリズムを連想させる音だ。僕はどうしようもないほどの好奇心に駆られた。動物的な衝動であった。飢えた動物のような必死さで僕は取っ手に手をかけた。なんとしてでも開けねばならない。躍起になって金具をいじり回した。横になった状態で僕はやっとのことで蓋を持ち上げた。そのまま膝を挟み、下を覗こうとした。機械音が大きく聞こえる。暗い穴が見えた。途端、背中に強い衝撃が走って、僕の体は穴へまるまる落ちた。

穴の中は液体で満たされていた。落下した時の衝撃で全身が痛んだ。膝の傷に、液体が染みた。僕はもがいて、今や天井になってしまった穴を見上げる。カンガルーがこちらを覗いてる気がする。幻覚なのだろうか?背中をさする。液体はぬるく、独特の重みがあった。水ではないような気がする。僕は不思議と目が開けられていた。液体に反響して、不思議に聞こえる機械音。今度は穴の下方を見る。チラチラ光を反射している。恐ろしいが綺麗だった。足元に鈍い鉛色のかなり巨大な物体が見えた。電車だろうか?いや、巨大なそれは潜水艦であった。それで、僕はこの穴の大きさを実感して、恐ろしくなった。潜水艦は静かに穴の底で沈座している。あるいは沈没かもしれない。僕はその情景に感傷的になった。潜水艦に果てしもない安心感と愛情を抱いた。きっと涙が出た。液体の中だったので分からなかった。しゃくりあげてしまって、気管に液体が入った。苦しい。だんだんと潜水艦が揺らいできた。意識が朦朧とした。もがくことも敵わなくなった。僕は十分頑張ったのだ。溺れていく。きっと楽になるだろう。僕はずっとこの潜水艦だった。潜水艦の元へ沈むのだ。僕は諦めた。


市営地下鉄×××線○○○駅ホームで、---区在住の男子学生(17)が死亡しているのが見つかった。男子学生は左膝にカッターが刺さった状態で発見され、全身に数カ所の刺し傷や痣が発見された。署は自殺と他殺の両面で捜査する予定である。

(△△△新聞)

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