漫才になれなかったモノ『転生』


目覚めてまず佐藤の目に飛び込んできたのは痛いくらいの白だった。

おろしたてのシャツのような汚れひとつない白色。それが見渡す限りの地平まで広がっている。見上げるとそこには屋根も空もなく、はるか上空まで白が広がっている。不思議なことに、光源らしいものは見当たらないのに柔らかい光が当たり一面を照らしていた。どことなく元旦の朝を彷彿とさせるような明るさであった。

「ははぁ、これは夢だな」佐藤は右手の中指で鼻の頭を掻きながら呟いた。

「いいえ、夢ではありません」落ち着いた声が背後から聞こえた。

声のした方を振り向くと、そこには淡いグレーのスーツを着た中年の男が立っていた。髪を整髪剤できれいに七三にまとめていて、小学校の優しい学年主任のような雰囲気の男だった。

七三の男は茫然としている佐藤に向かって続けていった。

「ご愁傷様です。佐藤一郎さま。あなたはお亡くなりになりました。」

           ★


佐藤一郎は生真面目さだけをまとめて人の形にしたような男だった。

公務員の父と同じく公務員の母の間に生まれ、十二分に愛情を受けて育った。

とりたてて得意なことはなかったが、だからこそマジメさだけを自分の長所と信じて生きてきた。

佐藤は人を傷つけることをなによりも嫌った。それは性分だったのかそう育てられたのか、佐藤自身にも判断がつきかねたが、「人を傷つけるくらいならば自分が損をした方が良い」というのが佐藤の信条だった。

佐藤は特に大きな問題もなく地方の国立大学を卒業し、地元の市役所に就職した。

彼の人生で唯一のコンプレックスは女性経験がまったくない、ということだった。

しかしまぁそれも、いつかはいい人に出会えるだろう。と佐藤自身は考えていた。前向きな思考からではない。ごまかしであった。

自己肯定感の低さから恋愛に対して積極的になれない、そんな自分に対する言い訳でしかないことを佐藤自身も理解していたが、だからと言ってどうすることも出来なかった。

そんなわけで彼、佐藤一郎は独身のまま三十を越え、平凡ながらそれなりに幸せに暮らしてきた。


 

ある六月の日曜、昼食の材料を買いに佐藤は歩いてスーパーへ向かった。

時間は十一時前、朝方まで降っていた雨のせいでアスファルトが濡れ黒々としていた。湿気がひどくTシャツが肌に貼りつき不快感を覚える。空調の効いた店内が恋しかった。

 

佐藤が横断歩道で信号待ちをしていると、彼の足元を猫くらいの大きさの何かが横切り、道路へと転がっていった。サッカーボールだった。後ろから待って!という男の子の声とバタバタと大きな鳥が羽ばたくような駆け足の音が聞こえる。

親は何をしているんだろう、と思いながら佐藤が視線をあげると右手から白いバンが明らかに法定速度を無視したスピードで迫ってきていた。

ボールを追いかけた子供が車道に飛び出す。フロントガラス越しに目を丸くした運転手の顔が見える。急いでブレーキを踏む。ダメだ。道路が濡れているせいでスピードが落ちる気配がない。逃げ出したボールを捕まえた子供は、車道にうずくまったまま遠くの何かを見つめるような姿勢で動けないでいた。自分を押しつぶそうとする車をぼんやりと眺めている。

佐藤は車道に飛び出す。体が勝手に動いていたのだ。車の眼前にいる子供を突きとばす。クラクションの音が聞こえる。小さいころ両親に連れて行ってもらったサーカスで見たゾウの鳴き声に似ているな、と佐藤は思った。


そして意識が途切れた。


           ★


 

「去年32歳、交通事故です。お悔やみ申し上げます」七三の男はビジネスバックから取り出した黒いファイルをめくりながら言った。

「僕は死んだんですか」佐藤は食べ物が喉に詰まった時のような表情で訊いた。

「はい、残念ですが」七三は悲しそうな顔をして、そして少しだけ微笑んで続けた。「あぁ、あなたが死ぬ前に助けた男の子。彼は無事助かりました。少し掠り傷は負っていますが、死ぬことに比べたら、ね」


佐藤はまた中指で鼻の頭を掻いた。困ったときや弱ったときに出る彼の癖なのだ。

鼻を掻きながら不思議なことに気付いた。確かに鼻を搔いているはずなのに、その感触が指先にも鼻先にも感じられないのだ。

少し強めに引っ搔いてみる。なにも感じない。


なるほど、どうやら本当に自分は死んでしまったらしい。佐藤は自分でも驚くほどに静かに自分の死を認識した。あまりに突然過ぎて実感が追い付いて来ていないだけかもしれないが。


「それで、僕はこれからどうなるのでしょうか」佐藤は鼻を掻いた右手を服の裾で拭きながら訊ねた。やはりなんの感触もなかった。

「はい、佐藤さん。あなたには転生の権利があります」と七三の男は言った。「申し遅れました、わたくし天国日本関東支部、転生課のものです」

「転生課?」佐藤は右の眉を少し上げて言った。「すごい、なんか役所っぽいですね」

「実際のところまったくそうです。天国も組織立てないと混乱してしまいますから」七三が微笑んだ。なんとも安心できる笑顔だった。

「さて、」七三が持っていたファイルを眺めながら続ける。
「佐藤さん、あなたは生前随分と善行を積まれたようです。親よりも先死に、というマイナスが少し痛いですが、最後の子供助けで十分プラスまで持って行けてます。トータルでいうとだいぶプラ出てます。」

「あのなんか僕の善行をパチンコの収支みたいに言わないでほしいんですが…」佐藤は少しだけ悲しい気持ちになった。天国とはずいぶん俗っぽいんだな。

「それでですね」七三は佐藤の抗議をまったくなかったかのように続けた。死んだ人がみんなが天国に来て絶対にいう抗議だったのかもしれない。
「規定の輪廻転生カルマは大きく越えられてますので、これだけ善行ポイントを稼いでらっしゃるとなるとたいていのお好きなものに転生出来ます。人間でも人間以外にも。なにかご希望はありますか?」


まさに夢のような話だった。

いまだ自分の死は受け入れきれていないが、好きなモノに生まれ変われる権利を手に入れたのだ。漫画のようではないか。佐藤一郎としての人生に未練がまったくないわけではないが、これは浮足だっても仕方がない。

「誰かの子供、とかでもいけますか?」佐藤は訊ねた。

「はい、指定の方の子供さんですね」七三はファイルをめくりながら答えた。「可能ですが、人気の高い方、例えば有名人の子供に生まれたいとかですと必要なポイントも当然かなり高くなります。佐藤さんの善行レベルならだいたいの人の子供に転生可能ですが、既に転生の予約をされてる方がいた場合は順番待ちになります。」

「なるほど」佐藤は少し間をおいてから訊ねた
「あの、長瀬智也さんの子供とかいけますか?」

「長瀬さん?TOKIOのですか?」

「はい、TOKIOの長瀬さんです。」佐藤は恥ずかしそうに言った「あの、僕は生前まったく女性にモテずにいたので、せめて来世はモテたいなぁって。その、ねぇ。長瀬さんの子供だったら、ねぇ。絶対にイケメンじゃないですか」

七三は軽く頷くと「お気持ちわかりますよ」と言った。そして鞄からノートパソコンを取り出し少し調べますね、と言いながらキーボードをカタカタと叩き出した。

「ていうかパソコンあるんすね。天国」佐藤が驚いた口調で言う。

「はい、令和なんで」七三が答えた。これも死んだ人あるあるなんだろうか。天国にパソコンあるの驚く。

「あー、残念です。長瀬さんの子供もう予約かなり入っちゃってますね」七三がパソコンの画面から顔を上げて言った。「五十人待ち出てます」

「USJかよ」佐藤は言った「ていうか長瀬さん絶対に五十人も子供作らないでしょ。豚じゃねぇんだから」

「キャンセル待ちの方もいらっしゃるので」七三は申し訳なさそうに言った。「どうします?予約されますか」

「いや、さすがに他探しますよ」佐藤は言った。長瀬さんの子供にはなりたかったが、五十人兄弟の末っ子は生きるのツラそうだ。大家族とかのレベルじゃない。

「生前モテなかった方の希望が多い転生先で、今すぐいけるやつですと…」七三がまたキーボードを叩き始める。

「すみません、若干失礼な検索かけるのやめてもらっていいですか?傷つくんで」佐藤は言った。しかしやはり七三は意に介さない。

「あ、これなんかどうでしょう?」七三がパソコンの画面を佐藤の前に向ける。

「どれですか?」


「コスプレイヤーのえなこちゃんの家のドアノブです」

「ちょっと待ってくれよ!!」佐藤は叫んだ。「そういうのアリかよ!!」

「はい、可能です」七三は涼しい顔で答えた。「佐藤さんの善行ポイントかなり高いので、これくらいだったら余裕です」

「いやいや、人がいいって!ドアノブより絶対人の方がいいって!」

「いやでも、毎日えなこちゃんにギュッてしてもらますよ。」七三が当たり前みたいに言った。「人間に転生してもえなこちゃんにギュッてしてもらえる可能性かなり低いですが、ドアノブは毎朝ギュッてしてもらえますよ」

「さりとて!!」佐藤は言った。「悲しすぎるだろ!ドアノブて!ていうか人気あるのかよ!転生先ドアノブ!!」

「はい、実際熊田曜子の家の便座カバーは二百人待ち出ました」

「世も末だな!!」

「どうしますか?今これ、えなこちゃんちのドアノブ奇跡的に待ちゼロですが、いつ埋まるかわかんないですよ」七三が人気の物件を勧めるような口調で言った。いや、実際にそうなのだろう。なにこれ。

「…いやいやいや、やっぱ変だって!ドアノブ!子供助けて死んで次ドアノブは悲しすぎるって!」佐藤は言った。「なんかないんですか、他イケメンの子供で空いてる転生先!」

「そうは言ってもですねぇ、やっぱり芸能人の方の子供はそれ狙いのファンの方も非常に多いので。モテたいとか女性と触れあいたいって理由なら他選んだ方が楽かとは思います」

「さりとて!!触れ合い方哀しすぎるじゃんって!」佐藤は今にも殴りそうな剣幕で七三に詰め寄った。「もっとマシなのないのかよ!!」

「あぁじゃあコレどうですか?」七三が別の検索結果が記載された画面を佐藤に見せる。

「どれだよ!」


「えなこちゃんの家のシャワーヘッドです」

「一緒じゃねぇか!!バカが!!」

たまらなくなって佐藤は怒鳴った。なぜあんなに頑張ってきた人生の次のステージがなにかの取っ手ばかりなのだ。ふざけるな。

「いやでも」七三が反論した。「おっぱい見れますよ。シャワーヘッドなら」

「…え?」佐藤は一瞬で冷静さを取り戻した。「おっぱい見れるの?」

「はい、シャワーヘッドなんで。おっぱい見れます。」

「えなこちゃんのおっぱい見れるの?」

「はい、これかなり善行ポイント高くないと転生出来ないので。かなりの当たり案件ではあります。シャワーヘッド。おっぱい見れるんで」

「…」

「おっぱい以外も見れます」

「じゃあシャワーヘッドで!!」


 

その後いくつかの書類にサインをし、証明写真をとり、佐藤の転生先がえなこちゃんの家のシャワーヘッドに決まった。

佐藤は心の中で、えなこちゃんに気に入ってもらえるようシャワーヘッドとして精一杯頑張ろう、と前向きに誓った。どうやら真面目さは生来のものであるらしかった。しかしそこに至って、彼はシャワーヘッドとして頑張るとは、いったい何をどう頑張ればいいのだろうか、という疑問には気づけないでいた。

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