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『アサッテの人』 諏訪哲史

2024/01/27
『アサッテの人』諏訪哲史

吃音による疎外感から凡庸な言葉への嫌悪をつのらせ、孤独な風狂の末に行方をくらました若き叔父。
彼にとって真に生きるとは「アサッテ」を生きることだった。世の通念から身をかわし続けた叔父の「哲学的奇行」の謎を解き明かすため、「私」は小説の筆を執るが……。

講談社

『アサッテの人』は構造が面白い。

・叔父に関する「私」の記憶
・叔父をモデルに書いた沢山の小説の草稿
・大判ノート3冊分の叔父の日記

この3つが行き交う小説だ。起承転結や物語の流れは無いのと同義で、もはや「小説」というよりは引用のコラージュ、または叔父に関するレポートのような具合だ。それを考える時、そもそも「小説」とは何だ、ということに行き着く。

そんな構造を作り出した作者、それから作品に出てくる登場人物たちも含めて『アサッテの人』という小説は究極だと感じた。突き詰めた結果として出来上がったのが『アサッテの人』なのだろう。

そもそも作者は「小説」という体に拘っている。メタフィクションだとか、私小説と言ったジャンルに組み分けされてもおかしくないような作品を「小説」と頑なに呼ぶ。こうなると、どこが事実でどこが作り物だろう、と探ってしまう心理が働く。この本の面白さは結末も含めて、読者が"こうかもしれない"と考えることなのだ。はっきりさせないことが小説を面白くさせる。

ページを開いて数行読めば、誰だってこの小説を書くために作者が本気だったことが分かるだろう。どんな作家だって作品に思いを込めていることは分かっているが、この作品は異常なくらい小説に向き合っていると思う。

そして小説の中心となった叔父。叔父が究極だと感じたのはその生き方だ。叔父は生きるを突き詰めた結果、「アサッテ」を生きようとする。

この小説で言う「アサッテ」とはもちろん明後日という意味ではなく、簡単に言うと素っ頓狂とか頓珍漢という意味だ。普通普通普通の中に突然奇抜な行動が"無意識的"に発生する。そういったことが叔父にとって生きることであり、目標とした生き方だった。

叔父はだんだん「アサッテ」的行動を目指しすぎて、自ら「アサッテ」を狙いにいってしまう。叔父の求めていた生き方は自然に生まれる「アサッテ」だったので、自発的に生まれた「アサッテ」に苦しむ。
この感覚は、私の文章ではあまり伝わってないと思う。私もあらすじを読むだけでは実態を掴めなかった。

なぜ叔父はそんな行動を求めたのか。それは叔父の吃音が関係する。

吃音とは話す際に言葉が途切れたり、繰り返されたりする言語障害のことだ。上手く自分の中から生まれた言葉を発することができなく、周りからは勘違いされることも多かったそうだ。言葉が上手く話せないことで社会から断絶された気分になり、ますます「普通」と遠ざかってゆく。

突如として叔父の吃音は治る。急に社会の「普通」に自分は属したことで、あんなに苦しめられていた吃音を徐々に求めるようになる。

吃音は叔父にとっての「アサッテ」の一つだった。普通に属したく無かったのか、それとも異質でありたかったのか。「アサッテ」を求めた最後に叔父は行方を眩ます。生き方を追い求めた結果の究極的な行動だと思う。

そして今も行方は分かっていないと言う。


ところで、私はまだこの作品のことを掴みきれていない。そこでYouTubeで「アサッテの人」と検索すると諏訪さんのインタビューがヒットした。見てみると、諏訪さん自身も作中の叔父同様3歳から吃音に苦しめられていたと言う。言葉への感情など、インタビューを聞いているとどうも諏訪さんと叔父の姿が重なる。仮にフィクション的要素がこの作品の中にあった、とすると叔父とは諏訪さん自身のことではないだろうか。

なんてね。

これは多分見当違いの考察だけど、でも叔父と重なり合っていた考え方が諏訪さん自身の中にもあったんだろうな、とは思っている。

他には無いような独特な小説と出会えて良かった。もしも叔父が本当にいたとして、叔父が生きていた証拠を甥っ子がこんなにも魂込めて一つの作品に仕立て上げたこと、世に残っていくことはとても幸せなことだと思った。

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