感想

 今年の夏もまた、太平洋戦争を題材としたドキュメンタリーが数多く放送された。そのほとんどすべてを録画予約して、少しずつ視聴している。録画したすべてを観終えたわけではないけれど、何本か観てきたなかで特に印象に残ったドキュメンタリーがあった。8月17日に放送されたBS1スペシャル『戦争花嫁たちのアメリカ』だ。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/3016050/

 このドキュメンタリーは、とても印象深い内容だったので、そのことを詳しく書き留めておこうと思う。そして、この数ヶ月に柴崎友香の小説を読みながら思い浮かんだことも、書き留めておく(ドキュメンタリーの内容も、小説の内容も、一部ではあるけれど事細かに触れる)。

 戦争花嫁とは、戦争で駐留中の兵士と結婚する現地女性を指す言葉だが、この番組では太平洋戦争後にアメリカ兵と結婚した日本人女性を指すものとして使われている。戦後の混乱期にアメリカ兵と結婚し、アメリカに渡った戦争花嫁は4万人を超す。そうした女性の何人かに半生を振り返ってもらう形で番組は進んでゆく。

 最初に登場するのはヒロコさんだ。彼女は朝鮮半島で生まれ、5歳のときに陸軍将校だった父を亡くし、戦後は母と弟の3人で日本に引き揚げてきた。彼女は銀座のPXで働いていたときにアメリカ兵からランチに誘われ、深い仲になり、結婚を決意する。あるいは、藤沢が実家だというフジエさんは、駅でアメリカの情報将校から「これから江ノ島に行くところだ」と日本語で声をかけられ、「あら、私も行きたいわ」と答え、江ノ島でデートする。次もまたデートをする約束をして相手と別れたところで、フジエさんは我に返ったのだという。

「さて、江ノ電に乗ってみたら、なんとまあ、はしたない女で、初めて会った――いくら将校さんの洋服着てると言ったって、どういう人だかわからないのに。大体アメリカ人などにくっついていくというのはみっともないし、あんな恥ずかしいことは、よく自分で、今までやったと」「あの頃一緒に外人と歩くというのはものすごかったんですよ。全然、普通の人から受け入れられなくて、“ああいう女”っていうことになるんですよね」

 アメリカはつい先日まで敵国であり、「鬼畜米英」のスローガンが叫ばれていた。それだけではない。終戦直後、日本政府は占領軍による性暴力を未然に防ぐことを目的として、特殊慰安施設協会を設立する。こうした国営の売春所や、街娼であるパンパンの存在したことから、アメリカ兵と並んで歩いただけで“ああいう女”だという視線を向けられたのだ。家族からも「お前はなんてことをしてくれたんですか」と非難され、「家名を汚すから結婚しないほうがいい」と告げられる。

 そうして最初のうちは結婚に反対していた家族も、アメリカ兵が誠意ある態度で接する姿を見て、次第に結婚を認めるようになる。ただ、家族の了承を得られたとしても、次なる障壁が待ち構えていた。1924年に制定された排日移民法によって、日本人は帰化不能外国人とされ、たとえ結婚したとしてもアメリカへの入国は難しかったのだ。戦争花嫁が増えるにつれて、軍人の婚約者に限り、厳しい審査を通れば入国が許可されるようになったが、1950年に入国が許可された日本人花嫁はわずか9人だったという。

 1952年に移民法が改正されたことで日本人花嫁の入国が認められるようになったが、渡航先でもさらなる障壁が待ち構えていた。結婚相手であるアメリカ兵の郷里を訪れてみると、義理の母からは白い目を向けられる(当時撮影された写真が映し出されるのだが、義理の母は苦々しい表情を浮かべている)。自分たちの敷地に入らないようにとゲートを作られたり、買い物先に出た先で唾を吐きかけられたりと、差別的な扱いを受ける。家計を支えるために働きに出ようにも、公民権運動以前のアメリカで、有色人種は理不尽な仕打ちをされる場面も少なくなかった。

 ここまででも十分に過酷な日々であるのだが、戦争花嫁を待ち受けていた苦難はそれだけではなかった。

 深川生まれのフジエ・ヤマザキさんは、シアトル生まれの日系二世であるカズオ・ヤマザキさんと結婚する。まだ日本で暮らしていたフジエさんに、義理の母――義理の母は広島生まれで、日系一世である――から手紙が送られてきたのだが、そこには「アメリカにきたら、よく働かないと。そういうつもりでアメリカに来なさい」と書かれていた。

 フジエさんの義理の母に限らず、戦前からの日系移民は戦争花嫁に不信感を露わにしていた。当時の日系移民の新聞には、戦争花嫁について「彼女たちはわれわれと違う種類の人間」であり、「なんでも買おうとする」と記されている。戦前に移民としてアメリカに渡った人たちは、過酷な労働に耐えながらもなんとか家庭を築いてきた。しかし、真珠湾攻撃が始まると敵性外国人として強制収容所に入れられ、戦争が終わったあとも警戒の目を向けられ続けていた。そうした苦難の歴史があるために、戦後になって移り住んでこようとする戦争花嫁に冷たかったのだ。そんな歴史が、ひとりひとりの人生を振り返る形で語られてゆく。

 戦争花嫁が日系人社会に溶け込むきっかけとなったのは、日系一世のための老人ホームができたことにある。戦争花嫁たちがボランティアとして介護に努めるなかで、徐々に打ち解けていったのだという。番組の後半では、日系人が多く住む地域にあるコミュニティセンターが映し出される。ここでは10年ほど前から高齢者向けの食事サービスが行われていて、中心となって料理を作っているのが戦争花嫁たちだった。提供される料理は和食だ。世代の違う「日系人」が食堂で一堂に会し、談笑しながら食事をする姿が映し出される。

 その映像を眺めながら思い出されたのは、先日読み終えた柴崎友香の小説『待ち遠しい』だった。

 この小説には、隣接する家に暮らす3人の女性が――それぞれ世代の異なる女性が――登場する。主人公は、離れに暮らす北川春子。39歳の彼女は美術学部に進み、テキスタイル科で学んだ。大学を卒業する頃は「超氷河期」と呼ばれていた頃で、友人も半分以上は正社員にならなかった。春子も派遣やアルバイトを転々としたが、今は販促用のパンフレットやグッズの製作、展示会のブースを企画する小規模な会社に勤めており、正社員として働く。趣味は消しゴムはんこや刺繍を製作すること。

 春子が暮らすのは「離れ」だと書いたが、母屋にはもともと大家さんが暮らしていた。その大家さんが亡くなったあと、母屋には大家さんの長女にあたる青木ゆかりが暮らし始めた。ゆかりの両親はともに大阪出身だが、戦後は東京に移り住んだ。ゆかりも東京生まれである。彼女が高校生のとき、両親と二人の妹は大阪に引っ越したが、高校卒業まで1年だったということもあり、ゆかりは東京に残った。彼女は「女は結婚して子供産んで当たり前、っていうか、それを以外を考えたこともな」く、二十歳そこそこのとき、半ばお見合いのような形で結婚。2年前に夫に先立たれ、その1年後に母が亡くなったことをきっかけに、母屋に暮らし始めた。彼女は現在、63歳だ。

 この建物の裏手に、黄色い壁の家がある。そこには若い夫婦が暮らしており、妻の遠藤沙希は25歳、近所の整形外科の受付で働いている。普段の格好だと随分幼く見えるが、高校を出てすぐに働いているせいか、職場での姿はずいぶん落ち着いて見える。両親は離婚している。叩かれたり怒鳴られたりした記憶だけがあるので、父親のことは「その人」と呼んでいる。一方、女手一つで育ててくれた母のことは「ハハちゃん」と呼び、「わたしの自慢やねん」と語っている。

 世代の異なる3人の女性は、隣り合って暮らしていることもあり、ゆかりの家に招かれて顔を合わせるようになる。そこで様々な価値観の違いが顔を覗かせる。近所に強盗が出たと聞き、「なんで強盗なんかするのかしらねえ」と口にするゆかりに、沙希はごく当たり前のように「お金がなかったら困るじゃないですか」と言う。二人は「若くして結婚した」という共通点があるけれど、その根底にある気分はまったく違っている。

「車なしで買い物なんかできるんですか?」と語り、自分を導いてくれるだいじな先輩を頼りにしている沙希の姿に、春子は「ヤンキー」と呼ばれた同級生たちを思い出す(しかし沙希はヤンキーのような外観ではなく、お嬢様っぽい服装をしている)。

 自分には才能もないとつい口にしてしまった春子に、ゆかりは「そんなの、誰が言ったの? 誰が決めるの?」と強い調子で言う。ゆかりにも何かやりたいことがあったけど、その気持ちに蓋をしてしまった過去があるのかと尋ねる春子に、ゆかりは「ううん、わたしは、そういうの以前の問題ね。やりたいことがるとかないとか、考えなかった」と答える。

 彼女たちの言動には、時代の影がある。もちろん時代というものが人格のすべてを規定するわけではないけれど、そこにはたしかに時代の影が滲んでいる。これは、ドライブインを取材していたときにも強く感じたことだった。

 『月刊ドライブイン』の創刊号で取材したのは、かつて阿蘇のやまなみハイウェイにあった「城山ドライブイン」だ。僕が初めて「城山ドライブイン」を訪れたときには、勝木サヨ子さんが一人で店を切り盛りされていた。「城山ドライブイン」は1964年にやまなみハイウェイが開通するのに合わせてオープンしたお店で、創業者は勝木斉さん。サヨ子さんは二十歳の頃にやまなみハイウェイまでドライブに出かけ、その途中で偶然「城山ドライブイン」に立ち寄った。お手洗いはどこかとキョロキョロしていると、店主の斉さんは「トイレだけはお断りです」とピシャリと言った。その言葉を聞いたサヨ子さんは、「こんな店には二度とこない」と思いつつ、ドライブインを後にする。

 後日、初代阿蘇町長である父がサヨ子さんに縁談を持ってくる。「頑張って真面目に店をやっている男がいるから嫁に行け」と言われ、見合いをする。そこにいたのは、ドライブインで「トイレだけはお断りです」と言ってきた店主だった。商売をして生きていくのは気が引けたこともあり、結婚に前向きな気持ちになれなかったが、それでもサヨ子さんは斉さんと結婚する。当時を振り返りながら、サヨ子さんは「父が言うもんだからしょうがないですよね」と笑っていた。そうして「城山ドライブイン」の“若女将”として働き始めるのだが、パートの従業員たちは年上の人たちばかりで、苦労したのは忙しさよりも人を使うことだったという。時代が下るにつれて、ドライブインの賑わいは落ち着き、従業員を雇う必要もなくなった。夫に先立たれたあともひとりで店を――「こんな店には二度とこない」と一度は思った店を――守り続けた。70歳のときに癌が見つかり、店を休業して療養していたところに地震が起きた。店内は散らかり、店の前の駐車場は大きくひび割れていて、危険な状態だった。周りの人から「危ないから近づくな」と言われても、サヨ子さんは何度も様子を観に行き、地震の3ヶ月後に亡くなる直前まで店を再開させようとしていた。

 あるいは、栃木県小山市にある「ドライブイン扶桑」で働く鈴木廣子さん。彼女は茨城県笠間市で生まれ育ち、実家を出る日がくるなんて、想像もしていなかったと振り返る。きっかけは11歳離れた姉が久しぶりに里帰りしたことだった。姉は小山市にある旧家に“嫁いで”いたけれど、「お前の妹をうちの次男と結婚させるから、嫁に出すという返事をもらうまで帰ってきてはならん」と言われたのだと、涙ながらに語った。話はあっという間に進んでいき、高校を卒業してすぐに廣子さんは結婚することになった。夫は厳しく、何度も怒鳴られたが、「私が至らぬばかりに主人を怒らせてしまうんだと思って、自分を責めながら主人に手紙を書いて渡したこともあります」と廣子さんは教えてくれた。

「ドライブイン扶桑」を創業したのは1970年のことだ。夫が「ドライブインを始める」と言い出して、急遽創業することになったのだ。廣子さんは当時25歳、飲食店で働いた経験なんてなかったけれど、早朝から夜遅くまで、休むことなく懸命に働いた。もし板前さんが辞めてしまっても店を続けられるようにと、時間を見つけては仕事ぶりを観察して、帳面にびっちりメモをした。「大変といえば大変でしたけど、お店で働いていないと、自分が自分でなくなってしまうような気がするんです」。そう語る廣子さんは今、74歳だ。「ドライブイン扶桑」は2015年秋の台風による水害で冠水し、店内はめちゃくちゃになってしまった。そんな状況になっても彼女は店を復興させて、今は娘さんとふたりで切り盛りしている。

 日本全国のドライブインを巡っていると、ある日突然夫が「ドライブインを始めよう」と言い出して、言われるままに妻が手伝って創業したケースが数え切れないほどある。ドライブインを取材していて驚いたことの一つはそれだった。僕と同世代であれば、何の経験もないまま夫が「ドライブインを始めよう」と言い出したとしても、妻が黙って従うということは、昔に比べると圧倒的に起こりづらくなっていると思う。そもそも結婚に至るまでの過程からして違っている。そう考えると、ドライブインで働く彼女たちが今日まで生きてきた日々にも、たしかに時代の影が滲んでいる。

 ドライブインを巡っていて驚いたことは他にもある。それは、この数十年のあいだに旅行のスタイルがすっかり様変わりしたのだと改めて感じさせられたこと。

 ドライブインをよく見かけるのは、景勝地の近くだ。その景勝地を目指して多くのドライブ客や観光客がやってきて、ついでにドライブインに立ち寄り、食事をしたり土産を買ったりしたのだろう。そうしてドライブインが賑わった時代から数十年が経ち、ドライブインを巡るついでに景勝地を眺めてみると、「ほんとうにここが景勝地として賑わったのか」と思ってしまう場所もある。僕の目は、テレビやインターネットを経由して、世界中の絶景を見慣れてしまっている。その目では「こんなものか」と思ってしまうけれど、当時はもっと身近な風景を愛でていたのだろう。

 こうした観光地の近くにあるドライブインは、大型バスが駐車できる店が多かった。観光客を乗せた大型バス向けのドライブインが数多く誕生し、社員旅行の途中にドライブインに立ち寄るというケースも多かった。観光バスはまず、日本が戦後復興から高度成長へと切り替わる1950年代から1960年代にかけて隆盛する。その後はパックツアーから個人旅行に切り替わってゆくが、バブル期に入るとドライブインはまた観光バスで賑わうようになる。戦後の復興を支えた世代が退職し、ようやくゆっくりできるようになって、旅に出るようになったのだ。

 「バブルの時代はすごかったですよ」――以前、赤目四十八滝の入り口にある「ドライブイン赤目」を訪れたとき、店主がそんな話を聞かせてくれたこともある。今では千円の弁当は売れなくなって、500円の弁当を並べているけれど、昔はそんな安い弁当を買っていく人はいなかったのだという。それどころか、「倍の金額出すから、もっといい弁当を用意してくれ」という客までいたそうだ。僕が小学校に上がる頃まではそんな時代が存在していたのだということを、ただただ不思議に感じる。

 『待ち遠しい』を読んでいると、ドライブインを取材しながらそんなことを考えて過ごした日々のことが思い出された。たとえば、バブルの時代に就職活動をしていた世代である五十嵐という男性は、学生時代を振り返り、「その当時は、誰でも就職できるっていうか、面接も今の人から見たら接待されているようなもんやったし、内定の日には他に行かへんようにって貸し切りバスでリゾートホテルに連れて行かれたほど」だったと語る。

 あるいは、ゆかりの旅の記憶。彼女は「パート先の人だとかご近所の仲のよかった人と近場に日帰りか一泊ぐらいで」よく旅行に出かけており、「日光、善光寺、白神山地、鬼怒川温泉、草津温泉、松島、宮島、函館、さくらんぼ狩りにぶどう狩り、ガラス工房や陶芸の体験、花火大会に七夕祭り」と、さまざまなパックツアーに知り合いと連れ立って参加している。旅行先の思い出話を聞かされながら、「春子は、パックツアーの新聞広告を思い出」す。「安い価格や見所がごちゃごちゃと強調されたページ。実家にいるころ、母親がよく眺めていたが、母は父以外とはあまり出かけなかった」――と。

 そうした新聞広告は今もよく目にするけれど、僕は一度も参加したことがないし、これから参加することがあるとも思えない。ゆかりのようにパックツアーに参加する人とは、どこか世代の差を感じもする。ただ、『待ち遠しい』に登場する3人の女性のあいだにあるのは世代の差だけでなく、経済的な事情や環境の違いもある。ゆかりは頻繁に出かける余裕があったけれど、それに対して沙希は「うちは、母がゆっくりできることなんかなかったし。わたしも別に興味ないんで」と語る。主人公である春子も、「十代のころは、大学生といえばバックパッカーでアジア旅行、二十代の働く女性は毎年のように海外旅行、というイメージが世に溢れていた」が、ほとんど旅行に出たことはなかった。収入に余裕がなかったということが主な理由だが、有給をとって旅行に出ることに対して職場の風当たりが強く、そんな気になれなかったのだ。

『戦争花嫁たちのアメリカ』を観ながら『待ち遠しい』のことが思い出されたのは、戦争花嫁たちの人生にも時代の影が滲んでいて、それに加えて、階層の問題も感じられたからだ。

 宮城県の農家に生まれたスージー・ウェンガーさんは、アメリカ兵の男性と結婚した経緯を振り返り、「私の年の男の人は、戦争で死んだんです」と語る。「ほら、戦争だったでしょう。私、結婚したとき、27歳かだったでしょう。まさか私もねえ、アメリカの兵隊と結婚するとは思ってませんでしたよねえ」。そう言ってスージーさんは豪快に笑い、隣に座る夫の肩を叩いていたけれど、彼女たちが戦争花嫁の道を選んだ理由の一つには、同世代の男性の多くが戦争で命を落としたということもあるだろう。

 戦争花嫁としてアメリカに渡った女性たちに対して、アメリカでは花嫁学校も開設されたのだと番組では紹介されていた。そこでは電化製品の使い方や育児の方法、メイクのしかたに至るまで、アメリカ式の生活スタイルが教えられていたのだという。そんなふうに教えてもらわなければならないことは山のようにあったとはいえ、番組を観ていて印象的だったのは、全員ではないにせよ、彼女たちはアメリカ兵と出会う前から英語を話すことができたということだ。

 番組の冒頭に登場したヒロコさんは、母と弟と3人で日本に引き揚げてきたあと、銀座のPXの仕事に応募し、見事採用されている。PXは米兵向けの売店であり、そこで働くからには英語が話せる必要があっただろう。そこでアメリカ兵からランチに誘われ、初めてハンバーガーを食べたのだとヒロコさんは振り返る(そのハンバーガーショップはどこにあるどんなお店だったのか、個人的にとても気になる)。あるいは、北海道生まれのフミコさんという女性もPXで働いていた。煙草などの嗜好品は一週間に購入できる量に制限があり、販売するごとに兵士が持っているカードにパンチで穴を開け、管理していたのだという。でも、「あの人は素敵だからパンチしない、あの人は生意気だからパンチするなんて冗談言いながらやってましたよ」とフミコさんは楽しそうに振り返る。

 ケイコ・ジョンソンさんは、立川で航空管制官として働いていたアメリカ兵・アルバートさんと結婚した。彼女の場合はPXで働いていたわけではなく、英語を勉強していた兄から友人として紹介されたのがアルバートさんだったのだ。戦争中は敵性語として禁じられていた英語を話すことができた人たちというのは、限られた層だったのではないかと思う(このあたりは裏付けがなく、ざっくりした印象だけれども)。

 それにしても、アメリカ兵はすごく積極的に日本人女性に話しかけたのだなと、番組を観ながら思った。何度も顔を合わせたことがある相手であっても、僕は話しかけることを躊躇してしまうこともあるので、余計にそう感じてしまったのかもしれないけれど、日本にやってきた進駐軍の兵士が40万人であるのに対し、アメリカに渡った戦争花嫁が4万人ということは、単純に計算すると10人にひとりが日本人女性と結婚したということになる。

 日本人女性の両親がアメリカ兵との結婚を認める過程には、彼らの誠意や情熱に動かされたところがあるのだろう。そうして戦争花嫁を連れてアメリカに帰国することを希望する兵士が増え続け、1952年に移民法が改正されている。ただ、番組の流れを観ていると、兵士の熱意が政府を動かしたようにも感じてしまうけれど、そこにも確実に時代の影響がある。1950年に朝鮮戦争が勃発し、冷戦が深刻化するなかで、日本は共産主義の防波堤と位置付けられるようになった。戦争花嫁の入国を認めるようになった背景には、従来のように日本人を排斥する政策を続けていては、日本が東側陣営に加わってしまうのではという危機感もあったのではないか。

『待ち遠しい』という小説は、その舞台が何年であるのかは明記されていないけれど、就職氷河期世代の春子が39歳ということは、限りなく現在に近いはずだ。また、彼女たちが暮らしている街は大阪である。春子の職場からは急行か準急で20分ほど離れており、駅から3つめのバス停で降りて、そこから徒歩7分の場所だ(だから、沙希のように車で生活する人もいれば、春子のように車を持たずに暮らしている人もいる、都市と郊外の境目のような場所である)。つまり、この小説は日付と地名が刻印されている。

 これは『待ち遠しい』に限らず、柴崎友香の小説を読んでいると、こうした刻印に出会うことが多くある。たとえば『春の庭』だと、終盤にこんな場面が登場する。

 午後三時過ぎだったが、道を歩く人はほとんどいなかった。灰色の雲が低い空を覆い、雪国みたいな景色だった。風が強く、傘を差していてもコートは見る間に雪で白くなった。すでに二十センチは積もった雪にわたしたちは足を取られ、特に太郎はわたしのスーツケースを持たされていたので難儀していた。わたしは途中で転んで雪に突っ込んだ。太郎は声を上げて笑った。誰かが作った雪だるまをいくつかと、かまくらというよりは穴ぐらも見つけた。子供の頃に近所の人に連れて行ってもらったスキー場で「かまくら」を作ったことを思い出した。太郎もその思い出を共有しているものと思って、あのときは楽しかったね、とはしゃいだ声を出してしまったが、太郎はスキーのことしか覚えていなかった。もう二十五年も前の話だ。

 ここに登場する「わたし」は、翌日、「太郎を都知事選の投票に行かせてから二人で駅の近くの焼き鳥屋に入」る。それはたった一行の記述であるのだが、そこに出くわしたとき、小説を読み進めるのを一時中断して、繰り返しその一行を読んだ。その日のことを、僕ははっきりおぼえている。東京が大雪となった日、僕は嬉しくなって街に繰り出して、街頭演説を眺めて、友人たちと合流して新宿の思い出横丁で飲んだのだった。

 雪の日に一緒に飲んだ3人は、柴崎友香さんをゲストにお迎えして「B&B」で開催した『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社)刊行記念トークイベントを聴きにきてくれた3人でもある。そのうちのひとり、武藤良子さんは、千駄木の「往来堂書店」で『市場界隈』刊行記念トークイベントを開催したときにゲストとして登壇していただいた人でもある。そのトークの途中に、雑司ヶ谷出身の武藤さんは「東京は永久に普請中ですよ」と言っていた言葉がずっと残っている。

 それに近い言葉は、『春の庭』にも登場する。それは、太郎と一緒に焼き鳥屋に出かけ、7杯目のビールを一気に半分ほど飲んだあとに西は、「東京は、次々建物が建って、新しいお店ができて、人に会うたびにあれがおもしろい、これがきてるって、なにもかも速いですよねー」と語る。そうして西と話すうちに、太郎はあることに気づく。

 そうか、近所で急に増えた新築やら改築やら塗装工事やらは、金融政策による経済効果とか増税前の駆け込み需要とかニュース番組で言っているあれなのか、と太郎はようやく気づいた。営業先でそんな話を聞かないこともなかったが、自分には関係のないことだと思っていた。駅に行くまでの道も、やたらと工事用の覆いが目につく。「ビューパレス サエキⅢ」よりも先に、道を挟んで向かいのアパートの取り壊しが始まっていた。

 ニュース番組で報じられていることは、わたしのこの生活と直結していることだと頭ではわかっていても、どこか違う世界のことのように感じてしまうところもある。この、テレビ画面の中の世界と、わたしのこの世界の隔たりということもまた、柴崎友香の小説では頻繁に描かれる。『寝ても覚めても』では、「わたし」と麦がテレビを観ていると、ベトナムの風景が現れる。一緒に観ていた麦は「おれ、ここ行ったことある」というが、わたしにとっては見知らぬ風景だ。また別の場面で、わたしが夕方の情報番組を眺めていると、心斎橋に新しくできたラーメン店の行列の生中継が始まり、そこに友人の岡崎が映し出される。落ち着きなくカメラを見ているテレビ画面の中の岡崎に向かって、わたしは手を振る。岡崎は当然ながら手を振り返してくれなかった。

 僕が最初に読んだ柴崎友香の小説『わたしがいなかった街で』にも、こうした隔たりは描かれる。主人公はずっとドキュメンタリー番組を――それも戦争をテーマにしたドキュメンタリー番組を――観ている。ある番組を観終えたあとに、こんな記述が登場する。

 中東で戦争が続いていることが、時間が経つにつれてだんだん報道もされなくなる。戦争が続いているという状態にすっかり慣れてしまって、仕方がなかったことのように感じてしまう。
 始まりがいつだったのか、どこから始まったのか、忘れてしまいそうになるが、戦争が始まる前には反対運動もあったし、ほんとうには始まらないんじゃないかと、望みというよりは勝手な期待を持っていた人も多くいたと思う。しかし戦争は始まり、あれからずっと続いている。始まってしまえば、終わる事は難しい。終わらせ方を忘れて、自爆テロや攻撃のニュースを見かけたときだけ、「まだやっているのか」と思う。

 『わたしがいなかった街で』の主人公と同じように、僕もドキュメンタリー番組をよく観る。ずっと観ているうちに、たぶんきっと、どこか麻痺してしまう。慣れてしまう。しばらく前に、知り合いの編集者から「テレビのドキュメンタリー番組を批評するリレー連載を」と依頼されたとき、僕が最初に取り上げたのはNNNドキュメント『うったづぞ 陸前高田 人情仮設の鮨』という番組だった。NNNドキュメントは毎週録画するように設定してあるが、この番組を再生し始めたとき、「ああ、被災地モノか」と心のどこかで思った。そう思ったことに愕然とした。いつのまにか慣れてしまって、テレビ画面の中でだけ起こっていることのように感じてしまっていた。それで僕は、陸前高田のお寿司屋さんを実際に訪れて、寿司屋の大将に会い、原稿を書いた。

 テレビ画面に映し出されることは、どうしてもどこか遠い世界のように感じられてしまう――その距離を感じたのは、東日本大震災のときだ。震災の翌月あたりに広島の実家に帰る機会があったのだが、両親がとても楽天的に震災と放射能のことを語っていたことを思い出す。あるいは2014年、川上未映子による「まえのひ」という詩を藤田貴大が演出し、青柳いづみの一人芝居として上演する「まえのひ」という作品が全国を巡演したときのことも思い出す。「まえのひ」は、東日本大震災を経て書かれた詩である。ツアーの序盤にいわきで上演したとき、「まえのひ」という言葉は東日本大震災を直接的に想起させるような響きを帯びていた。だが、西にツアーをしてゆくなかでその響きは薄れ、熊本を訪れたときにはすっかり消えていた。そこでは「熊本は地震が起こらない土地だ」という話も耳にしたし、「このあたりは太平洋戦争でも焼けなかったから、“まえのひ”と言われて思い出すのは西南戦争だ」という言葉も聞いた。だが、そんな日々もまた「まえのひ」に置かれていたのだと、2年後に愕然とすることになる。

 『市場界隈』は、建て替え工事を迎える那覇市第一牧志公設市場を取材した本だ。1972年、沖縄返還の年に建設された現在の第一牧志公設市場は、建物の老朽化が進んでおり、数年前から対策が話し合われてきた。現在の建物を活かす形でリノベーションする案もあったけれど、建て替え案に流れが傾いたのは、熊本の地震が――沖縄からすると遠い場所で起きた東日本大震災ではなく、比較的近い距離にある熊本の地震が――きっかけだった。地震によって宇土市役所は崩壊寸前となり、災害の対応に当たるべき行政が機能不全に陥った。そのインパクトは大きく、那覇市が運営する牧志公設市場も震災への備えをしなければということで、建て替え工事が行われることになったのだ。

 『春の庭』で太郎が感じたように、目の前にある風景が移り変わってゆくことの背景には、「ニュース番組で言っているあれ」が影響している。第一牧志公設市場は6月16日で一時閉場し、7月1日からは仮設市場で営業を再開した。旧市場はすぐにでも取り壊されて、建て替え工事が始まるものだとばかり思っていたけれど、2ヶ月以上経った今も建物は手付かずのままだ。どうして工事が始まらないのだろう――そんな疑問を投げかけると、あるお父さんは「それは、橋本さん、消費税ですよ」と笑った。「消費税が10パーセントになってから工事を受けるのと、8パーセントの段階で受けるのとでは、必要になる経費が全然違ってくるでしょう」と。そのお父さんの見立てが本当かどうかはわからないけれど、このままだと本当に10月まで工事が始まらなさそうな気配だ。


『市場界隈』を出したあとで、ありがたいことに何度か著者インタビューを受ける機会があった。そのたびに「どんな人に読んでもらいたいですか」と聞かれて、答えに困ってしまった。そこに登場するのは、沖縄の、そのなかでもごく狭い地域の話で、地名と日付が刻印されている。普通に考えれば、「市場を訪れたことがある皆さんに」とか「沖縄が好きな方に」とかになるのだろう。でも、『市場界隈』を取材しながら考えていたことは、そこで聞かせてもらった話を沖縄という土地に縛りつけるのではなく、すべての場所にひらかれたものにしたい、ということだった――と、『戦争花嫁たちのアメリカ』を観ながら思い出した。

『戦争花嫁たちのアメリカ』で語られるのは、ある特定の時代を、ある特定の場所で生きた女性たちの半生だ。それはとてもローカルな話ではあるのだけれども、それがどこかで反転して、ありとあらゆる場所につながっている話であるように感じられる場面があった。

 番組の冒頭に登場するヒロコさんは、アメリカに渡るとトレーラーハウスに暮らし、畜産の仕事に就く。家畜を育て、肉を捌き、販売する。そんな話を聞いていると、鶴橋の焼肉屋の風景や、少し前に観た映画『焼肉ドラゴン』のことが思い出される。ヒロコさんは結婚から20年を迎える年に夫を説得してスーパーマーケットを開店し、他にない特徴でアピールして、成功を収める。その「他にない特徴」の一つは、週に7日営業し、早朝から夜遅くまで店を開けたことだった。その話からは、昨年パリを訪れたとき、毎日のように通った“アラブショップ”のことを思い出す。スーパーマーケットは早い時間に閉まってしまうけれど、移民とおぼしき人たちが経営する小さな商店は深夜まで営業していて、重宝した。

 あるいは、航空管制官の夫と結婚したケイコ・ジョンソンさん。彼女の夫は黒人で、黒人と日本人の夫婦ではアパートを借りるのも苦労したと振り返る。どこもアパートを貸してくれず、夫は「モーテルの布団の中で男泣きに泣いていた」という。現在の日本でも、外国人だとアパートを借りづらいという話はときどき耳にする。いや、日本人であってもアパートを借りるのに苦労することはある。フリーランスとして暮らしている僕は、部屋を借りるたびに「審査が通るだろうか」と不安な気持ちになる。その不安は、『待ち遠しい』にも描かれる。

 春子は、初めて部屋を借りたときのことを思い出した。そのときは契約社員だった。不動産屋で、保証人はと聞かれて父親を挙げると、自営業ですかー、と芳しくない反応が返ってきた。中にはいやがられるオーナーさんもいらっしゃるんでね、とそれまでのにこやかな口調が変わったことに、春子は居心地の悪さを感じた。部屋は無事に借りられたし、今回の入院もなんとかなりそうだが、家族が疎遠だったり連絡を取れない事情があったりする人はどうなるのか、春子は暗く静かな病室でつい考えてしまっていた。

 家族がいなかったとしても、何十年前という時代であれば地域のコミュニティが残っていて、支え合って暮らすことができていたのだろう。『市場界隈』で取材をしていても、「昔はまちぐゎー全体が大きな家族みたいだったよ」という話を何度も聞いた。でも、そんな時代は過ぎ去ってしまった。これからどんなに年齢を重ねても、近所の人も家族同然といった生活を送れるようにはならないだろう。

 『待ち遠しい』の序盤で、春子は、若い男性が70歳ぐらいの女性に席を譲る場面に出くわす。

「学生さん? お家帰りはるとこ?」
 座った女性は、布製のくしゃくしゃした鞄に手を突っ込むと、小さな包みを差し出した。
「これ、よかったら食べる?」
 なにかははっきり見えないが、お菓子らしい。
 ほんとうに、いる。と、春子は思う。しょっちゅう見かけるわけではないが、それでも年に何回かは電車の中でこんなやりとりを目撃する。男性はお菓子を遠慮したが、女性と会話は続けていた。
 自分も「大阪のおばちゃん」にそろそろなるわけだが、「飴ちゃんを配る」なんてことは、何歳になってもないような気がする。それとも、あれくらいの年齢になればできるようになるのだろうか。自分の友人の中には誰かいるだろうか。順番に顔を思い浮かべて考えているうちに、女性は「学生さん」に何度もお礼を言って降りていった。

 飴ちゃんを配るどころか、春子ははっきりと意見を言うことができないタイプだ。古い友人からも「多少のことは愛想笑いで流すタイプ」と思われているし、他人からは「いつものんびりしてていいね」とよく言われる。突然右の脇腹に激痛が走ったときも、「自分なんかのために救急車を呼んでいいのだろうか」と葛藤する。そうやって春子は自分の感情に蓋をしようとする。そこに彼女の感情や思考がないわけではなく、あくまで(家族や社会から受け取った“呪いの言葉”の影響で)自分自身によって蓋をしようとする。でも、『待ち遠しい』の地の文では、春子が何かを好ましいと思ったり、何かに感心したりと、心を動かされる場面が頻繁に描きこまれている。そして、物語が進むなかで、「飴ちゃんを配る」という行為にはでないものの、他の登場人物に関わったり、思っていることをはっきり言う場面が登場する。

 日々の暮らしのなかで、世界と隔てられているように感じてしまうし、誰かとほんとうに言葉を交わすなんてことはほとんど起こりえないのでないかと思ってしまうけれど、それでもわたしたちは話しかけることができる。

 僕が最初に読んだ『わたしがいなかった街で』には、夏という女性と中井という男性がミスタードーナツで会う場面がある。隣の席に座っていた若い女性が、「筆書きの漢数字が並んだ表のようなものを開いてい」ることに夏は気づく。それは一体何だろう。夏が気になってちらちら様子を伺っていると、その視線に気づいた中井は「すいません、あのー、それってなんですか?」と話しかける。女性は愛想笑いをしながら「箏曲の楽譜です」と答えて、急に帰り支度をして店を出て行ってしまったが、夏は「そうか、気になったら聞けばいいのか、と思った」。

 小説の終盤に、夏が高速バスに乗る場面が描かれる。バスが大鳴門大橋にさしかかり、渦潮を目にした夏は、隣の席に座る女性に「見えます?」と声をかける。その直後の地の文には、「夏は、迷いなく聞いた」とある。しばらく渦潮を眺めたのち、夏は再び眠りに落ちて、目が覚めたときには日が暮れかけていた。そこには「棚田と海と、その向こうに燃えながら沈んでゆく太陽」があった。また隣の女性に声をかけようかと思ったが、隣の人は眠っているようだったので、ひとりでその風景を眺めていた。しばらくして、「気配を感じて振り返ると、眠っていると思った隣の人が起きていて、そして呆然とした顔で涙を流していた」。

 きっとこの人の今までの何十年分の人生のできごとが、今この人をこういう状態にしている、と夏にはわかった。なにがあったかはわからないけど、うれしいこともつらいこともかなしいこともくやしいこともとてもたくさんあって、今日、この風景を見た。
 わたしはこのおばちゃんみたいな気持ちも、一生経験することがない。わたしのこれからの時間に、そんなに深い感動は訪れはしない。なぜそう断定してしまうのか自分でもわからないけど、そう思って、でもそれはむなしいことともかなしいこととも感じなかった。
 ずっとわからないかもしれないけど、それでも、わたしは、長い人生の経験をかみしめて生きている人がいることを、少しでも知ることができるし、いつか、もしかしたら、そういう瞬間にたどり着くことがあるかもしれないと、思い続けることができる。なくてもいいから、絶対に、そう思い続けたい。

 僕は2ヶ月近くかけて『わたしがいなかった街で』を読んで、6月下旬の那覇で読み終えた。この箇所を読んで、自分がドキュメンタリーを観ていることや、誰かの人生を聞かせてもらって過ごしていることの理由がすべて書かれているかのように思えた。

『戦争花嫁たちのアメリカ』には、メキシコ国境の町に暮らすジーン・ハマコ・シュナイダーという女性が登場する。夫の退役後、彼女は職を探し、白人の経営する農園で働いた。そこはメキシコからやってきた労働者が大勢働いており、日本人はハマコさんひとりだった。その農園で数年働いていたが、オーナーが変わると、些細なことからハマコさんは解雇される。

 その日の夕方に、一緒に働いていたメキシコ人女性がハマコさんの家を訪れる。その女性はハマコさんの手を取り、「ほんとに今日はお気の毒様でした」とスペイン語で言ったのだという。ハマコさんはスペイン語を話せないが、「メキシカンの言うことは態度でわかる」「あなたの責任じゃない、お気の毒様って言いたいからきた」のだとわかったと、ハマコさんは振り返る。それが何よりの宝だ、と。


 ドキュメンタリーで映し出される映像は、小説に描かれる世界は、僕自身の経験の外側にあるものだ。自分が経験したものではない時間に触れながら、まだ見ぬ世界のことを想像する。そして、飴ちゃんを渡せないにしても、いつか決定的な瞬間に、誰かに声をかけられるようにといつも思う。


 先日の柴崎さんとのトークイベントは90分で、話したいことの半分も話しきれなかった。話したいと思っていたことのいくつかを忘れないようにと、小説を再読しながらこの文章を書いているうちに3日も経ってしまった。そのあいだに、ミスタードーナツを食べて、コンビニに並び始めた麒麟の秋味を買って飲んで、もう夏が終わってしまったような気持ちになっている。

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