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第9回「プレタポルテ」

 那覇の市場は“県民の台所”と呼ばれ、沖縄の食文化を担ってきた。公設市場が建て替え工事を迎えた今、新しい潮流も生まれつつある。そのひとつが、のうれんプラザの向かいに昨年オープンしたパン屋さん「ブーランジェリー・プレタポルテ」だ。

 店主の高倉郷嗣さん(49歳)は徳島県出身。香川との県境近くに生まれ育ち、小さい頃から母の実家のうどん屋さんを手伝っていた。

「香川に行くと讃岐うどんになるんですけど、徳島だとああいうのをたらいうどんと言うんです」と高倉さん。「もともとは製麺所だったお店だから、うどん屋さんの隣は商店になっていて、そこで麺を売っていたんです。お歳暮やお中元の季節になるとよく売れて、卵を割ったり、出来上がった麺を細く切る機械に通したり、袋に梱包したり——さすがに麺をこねる作業を手伝うことはなかったですけど、その頃から粉モノには親しんでました。手伝いをするとアルバイトとしてお小遣いをもらえていて、いつかは自分の飲食店をやってみたいということは当時から漠然と思ってましたね」

 うどん屋さんの隣にある商店には、うどん以外にもさまざま食料品が並んでいた。食べることが好だった高倉さんが夢中になったのがパンだった。地元のベーカリーが手がける菓子パンだけが陳列されていた棚に、あるとき山崎製パンが参入してくる。甘いアイシングが線上に施されたミニスナックゴールドや、巨大なコッペパンに白い砂糖が上掛けされた大ロシアパン。これまで見たことがなかった味や形状のパンに、少年時代の高倉さんは魅了された。お客さんもこぞって山崎製パンを買うようになり、ある日を境に地元のベーカリーのパンは並ばなくなった。最後の配達があった日に、地元のベーカリーの店員さんがぽつりと漏らした「うちのパンも美味しいんだけどな」という言葉が、高倉さんの胸に今も刻まれている。

 転機が訪れたのは、高校時代に交換留学生としてアメリカに滞在したときのこと。ホームステイ先として高倉さんを受け入れてくれたのはスペイン人の家族だった。

「小さい頃から食べるのが好きだったので、英語の勉強よりどうしても食のほうに興味が行っちゃって。スパニッシュのご家族なので、パエリアでお米も食べるし、『毎週水曜はパスタの日だ』と、パスタと一緒にバゲットも買ってきて、食卓に並んでたんです。そのパンがまた美味しかったんですよね。日本で食べてきたパンとこんなに違うのかと衝撃を受けて、お腹が空いたらこっそりつまみ食いしてました」

 何より衝撃を受けたのがベーグルだった。ベーグルはユダヤ移民によってアメリカにもたらされ、90年代に入って流行し始めたばかりで、日本ではまだ物珍しい存在だった。アメリカ滞在を経て、高倉さんはパン職人を志し、地元のホテルに就職する。ベーカリー部門を希望していたけれど、実際に配属されたのはフロントだった。3年ほどでホテルを退職すると、高倉さんはみずからベーグルサンドのお店を始める。

「ホテルを辞めてぶらぶらしてたときに、よく行くバーのマスターが『うちの店は日中空いてるから、喫茶でもなんでも好きに使っていいよ』と言ってくれて、バーをお昼だけ間借りするような形でベーグルサンドのお店をやることにしたんです。その前にもう一回アメリカに行って、1ヶ月近くかけてベーグルを食べ歩いたんです。ちょうど日本にスターバックスが入ってきた時期で、エスプレッソやカフェラテがブームになり始めていた時期でもあったので、向こうでエスプレッソマシンも買って、持って帰ってきたんです」

 こうして徳島駅前でベーグルサンドの店「コパベーグル」を開店。店名の「コパ」とは、間借りさせてもらったバーの名前である。当時はパン作りの経験もなく、最初のうちは名古屋で美味しいベーグルを出すお店から卸してもらっていたけれど、運送費を差し引くと儲けは出せなかった。そこで高倉さんは徳島にある老舗ベーカリーに直談判し、新商品としてベーグルを共同開発してもらうことになった。

「その老舗のパン屋さんも、『なにか新しい流れがきてるらしい』ってことはご存知だったらしくて、僕が直談判したときも『ああ、こういうのをやってみたかったんだよ』と快諾してくださったんです。僕もまだ二十歳そこそこで、自分ではパン作れないのに、毎日送られてくる試作のベーグルに駄目出ししてたんですよ。『これだと小さすぎる』とか、『これはふわふわすぎる』とか。今思うとほんと生意気だったなと思うんですけど、僕の意見を聞いてくださって、一緒にベーグルを作り上げていったんです」

 オープン当初は物珍しい存在だったベーグルも少しずつ認知されるようになり、「コパベーグル」は人気店となった。経営は軌道に乗ったものの、自分の手でパンを作っていないことが高倉さんの中で心残りとなっていた。2000年代に入るとカフェブームが興り、雑誌では頻繁にカフェ特集が組まれていた。パン職人として修業を始めるなら今が最後のチャンスだと思い、高倉さんは20代後半で「コパベーグル」を畳み、上京することに決めた。

「最初に働いたのは、原宿にあったオーバカナルなんです」と高倉さん。オーバカナルと言えば、料理から調度品、佇まいに至るまで、パリのカフェ文化をいち早く東京に持ち込んだお店だ。「フランスの大衆食文化を伝える」をコンセプトに掲げ、現在では都内だけでも数店舗を展開しているが、竹下通りと明治通の交差点で1995年にオープンした原宿店が第1号店だ。

「オーバカナルでも最初はギャルソンに配属されちゃったんですけど、1年ぐらい経って『実は僕、パン屋志望だったんです』と伝えたら、『早く言えよ』ってパン部門に入れてもらって。最初はサンドイッチを任されたんですけど、ものすごい数出るんですよ。めちゃめちゃ忙しかったから、これまで田舎でやってきたスローなテンポじゃついていけないんだって思ったし、とにかく鍛えられました。竹下通りを歩いてお店にたどり着くだけでも、人にもみくちゃにされて——お祭りでもやってるのかと思ったら、毎日そんな状態でしたもんね。揉まれたと言えば揉まれたと思います」

 朝から晩まで慌ただしく働き、勤務時間を終えると余った生地でパン作りを学んだ。まわりにはお手本となる先輩がたくさんいた。原宿店でシェフを勤めていたのは、現在は東京・武蔵小山で「ネモ・ベーカリー&カフェ」を営む根本孝幸さんだった。「僕から見ると雲の上の存在のような人ばかり働いていたので、とにかく先輩の動きを見て学んでました」と高倉さんは振り返る。

「オーバカナル」で6年ほど働いたのち、ベーカリー「ヴィロン」丸の内店の立ち上げに携わったものの、周りの職人たちのレベルの高さを痛感し、半年ほどで退職。次に勤めたのが新宿にあるベーカリー「ラ・バゲット」だ。

「そこは卸がメインのベーカリーで、都内のホテルやレストラン2、300軒に卸してたので、1日にバゲットを1000本ぐらい焼くんですね。もう、バゲットの1000本ノックみたいな感じでした。そこで基礎から技術を学んで、オーブンの温度を1度変えるだけでこれぐらい変わるんだってことも教わったんです。しかも、ホテルやレストランで出すパンだから、甘いパンじゃなくて食事パンを中心に教わりました。それに、注文があったぶんしか作らないので、ロスがないんですよね。営業終わりにゴミをまとめても、袋一つで収まる。それはすごくいいなと思いましたね」

 徳島から上京し、東京でパン職人として修業を重ねる高倉さんには、ある理想があった。それは南の島でパン屋を開くことだった。もともとリゾートが好きで、高校卒業後に勤めていたのもリゾートホテルの徳島店だったという。

「オーバカナルのパン部門で働き始める前に、修業を始めたら海外に行く時間もなくなるだろうなと思って、フィリピンのボラカイ島まで行ったんですね。マニラから飛行機を乗り継いで、またボートに乗って、ようやくたどり着いて。その島のホワイトビーチの横に、店がずらっと並んでるところがあって、そこにイングリッシュ・ベーカリーってお店があったんです。オープンエアーで、良い感じのお店だから、よく言ってたんです。イギリス人っぽいオーナーさんがいて、朝はパンを焼いてるんだけど、そのあとはお客さんと雑談したり、海辺でコーヒー飲みながら新聞読んでるんですよ。別に楽したいってことではないんだけど、自分の最終目的はここだなと思ったんですね」

 そんな夢を抱いたボラカイ島をはじめとして、モルディブやマレーシアのランカウイ島、タイのサムイ島など、時間を見つけてはアジア各地のリゾート地を巡ってきた。そんな高倉さんが沖縄に目を向けるきっかけは、ふとしたことからもたらされた。

「オーバカナル」に勤めていた頃に、今で言う“働き方改革”を推進されることになり、従業員は順番に1週間ずつ夏休みをとるようにとお達しがあった。トップバッターとして「明日から夏休みをとれ」と指名されたのが高倉さんだった。急に休みをもらっても、海外に出かけるには準備が間に合わず、当日の航空券を手配して沖縄に出かけることにした。恩納村を中心に西海岸を旅してみると、海はこれまで訪れてきたリゾートより美しく見えた。料理も美味しく、ヴィザも必要なければ日本語も通じる。「どうして今までこんな楽園にこなかったのか」と惚れ込んで、いつか沖縄でパン屋を開くことが夢になった。まずは土地のことを知ろうと、沖縄にあるホテルに履歴書を送り、名護市にあるリゾートホテルでパン職人として働き始める。そこで9年勤め上げたのち、独立してオープンしたのが「プレタポルテ」だ。

 西日でパンが焼ける心配がないようにと、沖縄本島各地で北向きの物件を探していたときに、那覇市の樋川にある物件と出会った。理想より手狭ではあったけれど、北東向きの物件だから西日に悩まされる心配はなさそうだったし、何より真新しい新築物件だった。3キロ圏内には5万人が暮らしており、完成したばかりの市営住宅も目と鼻の先にある。目の前にはのうれんプラザもあり、商売をするにはうってつけに思えた。ただ、契約前にお店の近くに一日中佇んでみると、昼間から路上で酒を飲む人たちの姿も見受けられ、「那覇の中でもディープな場所なのでは」と不安もよぎったが、建て替え工事が重なり、生まれ変わりつつある街に賭けてみることにした。メインで扱うことにしたのは、バゲットやカンパーニュといったハード系の食事パンである。

「レストランでは当たり前にバゲットを食べるようにはなりましたけど、家庭で晩ごはんにカンパーニュを切るかなといったら、まだそこまで浸透してないですよね。良いワインとお肉を買って家で食べようと思って、パン屋に行ってみたらバゲットが売っていない——自分自身もそういう経験が多かったんです。僕は“バゲット難民”と呼んでいるんですけど、自分自身もバゲット難民だったので、そういう人を少しでも救えたらと、ハードパンがメインのお店にしたいなと思ったんですよね」

 道路を挟んだ向かい側には、太平通りがある。この太平通り沿いには惣菜を販売する老舗も多く、高齢の買い物客も多く行き交う。そんな通りの対岸にあって、「プレタポルテ」はパリの街角にあるのような外観をしており、真っ赤な扉が目を引く。土地柄に合わせて昔ながらのパン屋といった佇まいにするのではなく、現在の外観を選んだことにははっきりした理由があった。

「ハード系の食事パンをメインに売りたいってなると、普通のパン屋の見た目だと訴求力が弱いと思うんです」と高倉さん。「でも、パリにあるような外観にすれば、『ああ、フランスではこういうパンを普通に食べるんだ』と思ってもらいやすい気がしたんです。それに、カレーパンとかクリームパンはありませんよってメッセージにもなるから、『カレーパンはないの?』って聞かれたことないんですよね。お店の見た目をパリのカフェのようにすることで、お客さんとしてもわかりやすいんじゃないかと思ったんです」

 昨年4月にオープンしてみると、連日大盛況となった。近隣にポストインで配布した3000部のチラシを手にお客さんがやってきて、「こういうお店を待ってたんだよ」という声が何度も聞かれた。那覇にも“バゲット難民”がたくさんいたのだろう。

 旅行客として沖縄を訪れている僕にとって、ハードパンは手が出しづらいものだった。ひとりで長いバゲットを買っても、滞在中に食べきれるか定かではない。何よりホテルで暮らしていると、パンを切る包丁もない。ある日、「プレタポルテ」でバゲットを見つめながら、注文するかどうか迷っていると、店頭に立つスタッフの方がこちらの思惑を察し、「ハーフサイズでもご用意できますよ」と声をかけてくれた。しかも、好みのサイズにカットしてくれるというから、パンを切る包丁がなくても問題ない。それならばと注文し、近くにあるお店で美味しそうなワインを買ってホテルに戻った。何もつけないプレーンなバゲットがあるだけでも十分なツマミになり、ワインが進んだ。近年ではまちぐゎーにワイン専門店もちらほらオープンしており、新しい食文化が生まれつつあるのを感じる。

「僕自身としても、ワインを飲みながら自分が作ったパンを食べたいって思いがあったんです」と高倉さん。「その意味では、うちがオープンした半年後に、向かいにリキッドさんがオープンして、すごく心強いですね」

「LIQUID THE STORE」とは、“飲む”に焦点をあてた専門店で、美味しいワインも数多く取り揃えている。また、店内にはコザにある自家製ハムとソーセージのお店「TESIO」や、北谷の「タイムレスチョコレート」も併設されている。高倉さんは「プレタポルテ」をオープンするにあたり、「TESIO」のハムを使ったパンを販売したいと考えていたが、コザから仕入れてくるのには距離的な問題があり、断念していたという。ところが、その「TESIO」が歩いて数十秒の距離に出店してくれたことで、現在ではソーセージやベーコンを使ったパンも販売している。

 お店の開店時刻は朝7時。クロワッサンやクロックムッシュなど、朝食向けのパンから作り始めて、焼き上がった順に並べていく。店頭にはおおよその焼き上がり時刻が書かれてある。クロワッサンやバゲットなど、パンの中にはぱりぱり感が大事なものもある。湿度の高い沖縄でも、焼きたてぱりぱりのパンを届けたくて、全種類焼きあがってからお店を開けるのではなく、焼き上がった順に並べるスタイルを選んだ。

 店内にはフランスのラジオ番組がインターネットを介してリアルタイムで流れている。フランス語はわからなくとも、言葉の抑揚がどこか心地よい。パンを買う際には、お客さんがみずからトングを使って選び取るのではなく、店員さんに注文を伝えるスタイルになっている。店頭に並ぶパンの中には、チャバタやフーガス、ノワレザンなど、日本ではまだ馴染みの薄いパンもあるけれど、スタッフが懇切丁寧に説明してくれる。これもひとつの相対売りだ。お客さんとやりとりする中で、「こんなパンが食べたい」とリクエストを受けることもあるという。

「あるとき、お客さんから『くるみを使ったパンはないの?』と聞かれたことがあったんです。くるみをバゲットに入れて、あんこも入れたフランスあんぱんを出したら面白いかなと思って、くるみあんぱんを商品として並べるようになったんです。パンの神様と呼ばれているビゴさんという方がいて、神戸の芦屋でお店をされていたんですけど、ビゴさんもフランスあんぱんは好きだとおっしゃっていたので、これならビゴさんにも怒られないかな、と。あとは市場がすぐ近くにあるので、『ああ、今はこの果物が旬なんだ』と思ったら、それをデニッシュにのせたり、ブリオッシュにしたり、素材ありきで作ってるものもありますね。そこに関しては、市場が近いというのが一番大きいですね」

 リクエストをするお客さんには、年配の方が少なくないのだと高倉さんは教えてくれた。国産小麦を使用し、砂糖を使わずに仕上げていることもあり、「プレタポルテ」のパンは年配のお客さんにも好評なのだ。

「店名にあるプレタポルテというのは、ファッション業界の言葉で“高級既製服”という意味なんです。同じくファッション業界の言葉でオートクチュール——オーダーメイドですよね。もしも2店舗目を出すんだとしたら、次はお客さんの好みやスタイルに合わせたオートクチュールのパンを提供したいなと思っているんです。今は妻と一緒に朝からぶっ通しで働いていて、とても2店舗目どころじゃないんですけど、いつかはそんなお店もやれたらなと思っています」

 オープンからまだ2年と経たない「プレタポルテ」だが、冬の定番が生まれつつある。去年と同じく12月1日から販売されたシュトーレンである。

「シュトーレンは、名護のホテルで働き始めたときから、自分のレシピで作るようになったんです。そこから毎年試行錯誤を重ねてるんですけど、今年のレシピは結構いい出来だと思います。去年は初年度だったので、シュトーレンを出して売れるかどうかわからなかったので、とりあえず100本作ってみたんです。12月1日に売り始めたら、10日ぐらいで売り切れちゃって。シュトーレンはフルーツの漬け込みとか準備が必要になるので、追加では作れなかったんですけど、今年は去年の倍の200本作りました」

 今年のシュトーレンには、砂糖ではなく、八重山でつくられた和三盆を使用している。高倉さんの実家がある隣町も和三盆の産地として名高く、和三盆には幼い頃から馴染みがあった。和三盆を使うことで、砂糖特有のべたつきがなくなり、すっと消えていく上品な味わいを出すことができる。それでいて、八重山の和三盆には黒糖ならではのコクもあるのだという。

「シュトーレンはドイツのドレスデンが発祥だと言われているんですけど、ドイツでは12月25日のクリスマスまでの4週間が“アドヴェント”と呼ばれていて、このアドヴェントの期間に食べるのがシュトーレンなんです。薄くスライスして、1日1枚ずつ、クリスマスを楽しみに待ちながら食べるお菓子なんですよね。砂糖もバターもたくさん使ってあるお菓子だから、一度に食べると胸焼けするぐらいなんですけど、どうにかしてもっと口どけよくしたいな、と。シュトーレンはどうしても、時間が経つにつれて水分が抜けてばさばさしてくるんですけど、しっとりしたままクリスマスの日まで持つようにしたいなと思って、今のレシピにたどり着いたんです」

 いくつになっても、クリスマスが近づいてくるとわくわくする。師走のどこか慌ただしい気配と、冷たい空気のピントした感じ。まちぐゎーにもクリスマスツリーやイルミネーションが飾られ、お菓子屋さんにはクリスマスケーキの注文表が置かれている。これまではそうした景色を眺めながらクリスマスが近づいていることを感じるだけだったけれど、今年は「プレタポルテ」のシュトーレンを味わいながら、クリスマスまでの残り日数を数えている。とても美味しくて、ぱくぱく食べたくなるけれど、「一気に食べちゃうと、ドイツの方に怒られますよ」と高倉さんが笑っていた姿を思い出して、細く切った一切れずつを味わっている。

 美味しいパン屋さんと出会ったことで、自宅でもパンをカットできるようにと、パン切り包丁を買い求めた。「プレタポルテ」がオープンしたことで、那覇の家庭にパン切り包丁が普及する未来を想像している。


高倉郷嗣さん

ブーランジェリー・プレタポルテ
沖縄県那覇市樋川2丁目2−5
7:00-19:00(水曜定休)

フリーペーパー「まちぐゎーのひとびと」
毎月第4金曜発行
取材・文・撮影=橋本倫史
市場の古本屋ウララにて配布中


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