リスたちのゆううつ

リスたちのゆううつ

 急に、リストラがあるという噂が立った。人事部長の姪が、どこにも就職できなくて泣きついてきたらしい。
 いったい誰がターゲットになるのか。人が足りたり不足したりする、人口が少ないこのご時世に、人を減らすなんて。
 社内の人々は噂する。きっといちばん、だめな子がリストラの対象。
 仕事はできても、愛想のない人間か。可愛いだけの、仕事ができない子か。
 彼女のことをちらりと見る。さっき言われた資料のことも、すっかり忘れてぼんやりしている。可愛くて、愛想がよくて、それだけで世の中を渡っている。ドジでお客様にお茶を掛けるくらいのうっかりなのに可愛がられる。
 対して、自分は全然愛想がない。仕事はきちんとこなすし、重宝されるけれど、多分こういうときは、ターゲットにされやすいだろう。
 仕事ができるだけの人間より、ひとは可愛さを選ぶものだから。
 実家の小さな畑を引き継いでもいい。自給自足だ。実際には畑仕事なんて、体力的にできずに事務職を探してさまようのだろうけれど、夢くらい見たい。

「また忘れちゃったの?」
 先輩のあきれた声に、体がすくむ。ごめんなさい。心が全然こもってないから謝らないでって、たまに言われるけれど、心だけはすごくこもっている。
 その後に、何の改善も起こらないことを、不誠実だってなじられているだけ。
 私の記憶は上書き保存。ホワイトボードみたいに、どんどん書きかえられてしまう。
 さっきも、この資料は午前中までと言われたのに、電話を取ったらすっかり忘れてしまった。
 新商品の化粧品や洋服、カバン、靴のことは覚えていられるのに。
 自分ではどうにもならない。ホワイトボードはどんどん消される。他の人はノートみたいに蓄積があるんだろう。ページをめくれば、前に見聞きしたことがすぐに分かる。私の場合は、どこを探したって、見つからない。消えてしまうんだもの。
 何度怒られたって変えられないから、私はずっと笑うだけ。
 怒られても変えられない。
「あ」
 黙りがちで、少し怒ってるみたいな同僚が、昼休みの食堂で隣になった。
 物覚えが悪くて困っちゃうんだ、と私が笑って言ったら、困ってるなら使ってみたら、と、携帯端末のリマインダーを設定してくれた。
 午後の仕事で、絶対忘れたくなかったもの。会議の時間とか。十五分前に音が鳴るようにしてもらった。それで、鳴ったときに、そのときの作業内容を忘れてしまうんだけれど。その日は、会議のことは忘れなかった。
 リマインダーのことは、思い出したときにしか設定してない。
 だから相変わらず物忘れはひどいけれど、これでも、良くなってるような気もする。
 新しい人を採用するから、誰かやめさせられるかもしれないって、噂を聞いたけれど、これで少しは、びくびくしないで働けるといいんだけど。

 もともと、働くつもりなんてさらさらなかったのだろう、人事部長の姪は、採用を待たずしてあっという間に妊娠し結婚してしまった。仕事と子育てを両立させたい気持ちもなくて、結局、周りの誰の思惑も気持ちも関係なく一人で道を決めて行ってしまったらしい。
 それほど思い切りのよくなかった私たちは、今日も真面目に仕事をしたり、ぼんやりと雑談に花を咲かせている。
「あ、おはようございます」
 ふわふわしたお花畑みたいな話し方で、一番仕事のできない子が話しかけてくる。
 以前、昼休みに話しかけられたときに、いつも楽しそうでいいな、と正直な感想を返したら、他に生き方なんてなかったですよ、と、全然暗くも重たくもならない、ふわんふわんした感じの口調で返事された。私だって、仕事できる人のこと、うらやましいですもん、誰かに助けてもらわないと全然、生きてけないから、どうしたらいいか分かんない。
 口調と態度が日向の植物みたいなので切迫感がかけらもなかった。人それぞれに悩みってあるものだねと、ありふれた当たり前の言葉を添えることしか、私にはできなかった。
 あの子も、たぶんこの会社で働くことについて、生きながらえた。別の世界、別の会社や立場を選ぶこともできたのに、できるだけの踏ん切りも勇気もなくて、崖の前に立ちすくんだだけであっても。その間に、人事部長の姪は崖を飛び越えて消えてしまった。
「働けるうちは、がんばって働きましょうね!」
 にこにこして言われるから、そうだねと、何となくぼんやりと返してしまう。
 私は今日も働いている。いつか崖を越えるために。

#小説 #掌編小説

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