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ワーグナーオペラ、Parsifalを読み込む

タンホイザーに引き続き、オペラの勉強会、今日はParsifalです。

日本語のウィキペディアのストーリーを読んでもいまいちよくわからなかったので、そこを参照にしつつ他のところも読み、以下、まとめました。これを読めば、分かった気になることを保証します!

タンホイザーも中世が舞台、こちらも10世紀ごろの中世を舞台にしたオペラ。スペイン/フランス国境のモンサルヴァート城およびKlingsorという名前の邪悪な魔術師の城を舞台にしており、聖杯伝説=Holy Grail、聖杯を守る聖杯騎士団が背景にあります。(聖杯=最後の晩餐のとき用いられた杯、または十字架上のイエスの血を受けた杯)。主人公はParsifal(👨)と影の主人公のKundry(🧙‍♀️)。

ここで影の主人公のKundry(🧙‍♀️)ですが、彼女はプロットの中にははっきりとは説明されていませんが、過去に十字架上のキリストを笑ったため、限りなく放浪する罪に定められている魔女です(いつまでも死ぬことのできない苦しみを背負っている)。彼女は邪悪な魔術師Klingsorの影響下にあり、Klingsorの言うことを聞かなければならないのです。彼女は半分善人で、半分悪人のようなポジションで描かれ、実は罪悪感でいっぱいで、傷に塗る香油を探すために最善を尽くしたりしながら、聖杯騎士団を壊滅させようともするのです。声的には、このパートはソプラノとメゾソプラノのどちらもありで、声だけでなく、劇的に素晴らしい演技力が求められますが、メロドラマになりすぎないように注意しなければならないと書いてありました。

メロディがセンチメンタルでお涙頂戴(でもやっぱり感動してしまう)のイタリアンオペラのアリア構成と違い、ワーグナーのオペラはテーマが組み合わさっていて、この個別の短いテーマはライトモチーフと呼ばれています

Leitmotiv. 音楽用語。 「主導動機」「示導動機」と訳され,ワーグナーの後期の楽劇のなかで,重要な人物,事物,想念などを表わす。 ドラマの発展に応じて,原形のまま用いられるだけでなく,基本的輪郭をとどめながら,リズム,音程などが変容されて現れる

コトバンク

夫の説明によるとParsifalはストーリーよりも音楽が秀逸とのこと。確かに繰り返されるライトモチーフはミニマリスト音楽のような心地よさです。

Prelude to act 1  ワーグナーによるとキリスト教の神が創った3つの徳(信・望・愛)を表しているそうですが、これぞワーグナーという感じの多種の楽器を重ねてあり、「柔らかい、くぐもったような雰囲気」を醸し出します。ライトモチーフを散りばめた銀粉が空気に舞っている感じ。

Act 1 Amfortas王に仕えるGurnemanzという騎士(かくしゃくとしたご高齢)が物語の説明(背景)を長々と歌ってくれます。

Amfortas騎士王は邪悪な魔術師Klingsorを殺すために聖槍を持ってKlingsorの城にやって来ました。ここでAmfortas王は邪悪な魔術師Klingsorの影響下にあるKundry魔女にうまく誘惑され、誘惑されている間にKlingsorは槍を盗み、それを使ってAmfortas王を攻撃したのだそうです。聖槍によって彼が負った傷は癒えることはない状態です。魔女のKundryはAmfortas王の傷を治す薬草(軟膏)を見つけ、それをGurnemanz騎士に渡します(怪我に対する自分の罪悪感を和らげようとする行い)。

魔女Kundry役のKirsten Flagstad 
夫はKirten Flagstad(ノルウエー人)のファンで、
オスロに行った時には彼女の生家を訪ねたこともある

Gurnemanz騎士はKlingsorの邪悪な呪いを説明します。Klingsorによると、「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て*」= 「pure fool, made knowing by compassion」汚れなき愚者のみが傷を癒すことができると予言しているのだそうです。(*憐れみによって賢くなった、純粋な愚か者を待て、の方がわかりやすいかな)

かくしゃくとしたご高齢のGurnemanz騎士

ここでcompassion: 日本語訳だと思いやりとか同情とかで訳されますが、慈悲というのが一番良さそう。sympathy, empassy, compassionと微妙に違いがあるにはあり、compassionは行動を伴う思いやりでなければなりません。なので、「共苦して」と訳したのでしょう。ちなみにエンパシーとシンパシーのころのすけさんの記事、面白かったです。

sympathy, empassy, compassionは日本語訳は全部、同情です。

しかし、同情なんていらねえ、同情するなら金をくれでお馴染みの通り
日本語の同情はpityに値するようです。
pity=同情
sympathy =共感*
empathy=共感*
compassion =慈悲
(*違いはころのすけさんの記事ご参照)
英語だと上に行くほど、右に行くほど努力や理解の度合いが上がる

だいぶ話が逸れました。

ここで湖の白鳥を射落とした若者が引っ立てられてきます、これがParsifal。

何年まえかわからない夫の教科書には白鳥のデザイン


Gurnemanz騎士はこの若者こそpure foolではないかと期待し、若者を城へ連れて行きます。城内の礼拝堂で、聖杯の儀式が執り行われていますが。しかし、傷ついているAmfortas王にとって、儀式は辛く、死への願望がAmfortas王を襲います。Amfortas王の父である先王Titurelの促しによって、聖杯の儀式が続けられますがこの若者は茫然として立ちつくすばかり。Gurnemanz騎士は失望して若者を追い出します。

このParsifalはイエスキリストを彷彿とさせる
このParsifalとKundryは美男美女。一番イメージに合う。

Act 2

Klingsorの魔の城。Klingsorの邪悪な歌が魔女のKundryを呼び起こします。Klingsorは魔女Kundryに、魔の城に侵入した若者=Parsifalを誘惑し堕落させるように命じます(同じパターン)。Kundryは抵抗するのですが、結局言いなりになるしかない呪いがかかっています。Klingsorの魔術によって、あたりは花園になっている状態です。花の乙女たちが無邪気に舞いながら若者を誘っている場面から、Kundryが現れ「Parsifal!」と呼びかけ、ここで初めて若者の名が明かされます。Kundryは前述した通り、世界を放浪する罪に定められている(死ぬことができない)魔女なので、Parsifalの過去のいろんなことを知っています、Parsifalの母親の愛や昔のことを知っているのです、彼女はParsifalに彼の名前と赤ん坊の頃の思い出を語り、彼の母親が意図的に彼を世事から遠ざけていたことを語ります。そしてParsifalに接吻します。ところが、この接吻によって、Parsifalは突然、「知」を得て、Amfortas王の苦悩を悟ります=compassion。そしてParsifalはKundryの誘惑を退けます。KundryはAmfortas王の傷の責任は自分にあることを明らかにし、Amfortas王の元へ連れて行くことを拒否し、騎士への道を呪うと叫ぶ。ここで誘惑に失敗したと悟ったKlingsorが現れ、聖槍をParsifalめがけて投げつける。聖槍はParsifalの頭上で静止*し、Parsifalがそれをつかんで十字を切ると、魔法が解け、城は崩壊して花園は荒野と化すのです。

*この聖槍はParsifalの頭上で静止する画面は大体は紐で吊るされた槍をスルスルっとParsifalの頭上まで持っていく振り付けが多いですが、物語のハイライト。

Act 3 第1幕と同じ場所

前奏曲は、Parsifalの彷徨・遍歴を示す。

何年も後、魔女Kundryは半死状態で森の中で彷徨いますが、Gurnemanzによって発見され、助けられ、彼女は彼の従者となります。そこに武装した騎士が現れる。騎士はParsifalです。いまやAmfortas王は瀕死、先王Titurelも失意のうちに没し、聖杯の騎士団は崩壊の危機に瀕しています。Kundryが水を汲んできて、Parsifalの足を洗い、頭に水をかける洗礼の儀式を行います、そしてParsifalもまたKundryに洗礼を授けるのです。

ここから聖金曜日の音楽となり3人は城に向かいます。城では、先王Titurelの葬儀のための儀式が始まろうとしていたところに到着します。何年も治らない傷を負っているAmfortas王は苦悩の頂点に達し、「我に死を」と叫ぶ。そのとき、Parsifalが進み出て、聖槍を王の傷口にあてると、予言通り、たちまち傷が癒えたのです。Parsifalは新しい王となることを宣言、聖杯を高く掲げる。合唱が「救済者に救済を!」と歌い、聖杯は灼熱の輝きを放ち、丸天井から一羽の白鳩が舞い降りて、Parsifalの頭上で羽ばたく。Kundryはやっと呪いから解放されてその場で息絶えます。


しかし、何度読んでも分かりにくい物語でした。

Gurdianに面白い説明がありました(訳が難しいね、なんかイギリス人の書く皮肉な英語だよな〜)のでご紹介します。

聖杯伝説=Holy grailやParsifalとKundryの '足を洗う' 洗礼などなど、キリスト教のオペラであるように一見見えますが、それにもかかわらず、救済者=救済主がキリストJesus ChristではなくParsifalであるという '奇妙な' 種類のキリスト教オペラです。Parsifalは、自分の名前さえも何も知らない愚か者から聖杯コミュニティの救世主への変遷するのです。そして慈悲による啓発、人の進歩を描いていますが、 「共苦して知に至る、汚れなき愚者を待て= 憐れみによって賢くなった、純粋な愚か者を待て」= 「pure fool, made knowing by compassion」と言っているのは天の声・神の声ではありません(そう言っているのは邪悪な魔術師Klingsorです)。実はここに信仰はあまり関係なく、Parsifalは天の声・神の声を借りずに救世主となる境地へ到着します。他の人たちを憐れむことを学んだおかげで達成されたのです。結局のところ、負傷したAmfortas王は、慈悲深い御方のいる天に何年も泣き言を言っていましたが、天の義務は全く果たされなかったのです。思うに、慈悲が何らかの効果を発揮するには、別世界のひそみが必要であるということになります。その別世界のひそみをワーグナーは、仏教の中に見出し、キリスト教と仏教のテーマを融合した、むしろ混同したハイブリッドな物語を創造したのです。

この混同した陰惨な混乱に満ちた物語が、ワーグナーの音によって内側から照らされます。全体を通して、比類のないニュアンスと繊細さ、物語が望むことしかできないギアチェンジと変容を可能にする音楽、耐えられないほど美しい音楽は、私たちに畏敬の念を抱かせます。

それでも、退屈な物語を隠すことはできません。最悪のプロダクションの場合、何も起こらないシーンが多すぎます。騎士たちはゾンビのようにテーブルの周りに座っているだけで、聴衆は、延々と続く典礼、儀式に耐えなければならないのです。もしあなたがその聴衆の中にいたら、生きる意志を失っていたでしょう(*居眠りしてしまうということですね)。 1931 年、トスカニーニは指揮棒の扱いが非常に速いと通常考えられていましたが、それでもこのオペラは4 時間 48 分かかるのです、長い . . 。


いつもありがとうございます。このnoteまだまだ続けていきますので、どうぞよろしくお願いします。