路上で暮らすあの子の目がなぜ輝いて見えたのか

僕の心に強烈なインパクトを与え、今でもその光景が鮮明に思い浮かぶ場面がある。

どんな人にでもこのようなことはいくつもあるでしょう。

僕の場合は、その後幾度も頭に浮かび、そのたびに何か大切なことを考えなければならないという義務感に襲われる光景がある。

その日はいつもの週末の通り、夜も遅い23時ごろドライバーをエントランスで待っていた。

昼間は人で賑わうこの通りも、夜は一人で歩くには少々気を張らなければならないほど静かで、少し不気味な雰囲気がある。

エントランスの周辺には路上で暮らす人々が大勢いる。昼間も見かけるのだが夜になるとこんなにもいるのかという、そんな光景が現れる。

そんな中、僕の職場の建物の前に、いつもこのくらいの時間にダンボールを敷いて眠る姉弟がいた。

みすぼらしいその「部屋」は、彼らの背景を想像させるのには十分なほどだった。

その夜、僕は日本だったら小学校1年生ぐらいのお姉ちゃんがどこかから走ってきて、弟の待ついつもの部屋へ行く姿を見つけた。

その顔はとても晴れやかで、そしてその目は誰よりも輝いて見えた。

見惚れるほど、こんなにも素敵な笑顔を見たのは久々だった。

これからダンボールの敷布団とダンボールの掛け布団で寝るとは、そんな未来に向かうとは到底思えなかった。

しかし、数分以内にはいつものように「部屋」で横になっていた。

自分にはあのような笑顔ができるだろうか。

日本にいてもなかなか出会うことはない、そのくらいあの目の輝きは僕を魅力した。

僕はそのとき、自分よりも彼女の方が幸せそうに生きているということを突きつけられた気がした。

僕は明らかに彼女の部屋よりも安全で、綺麗で、快適な場所に住んでいた。

そして彼女よりも経済的に自由だ。

それでも、何か見たされていない自分はいったい何を求めて、何を得られたら、あんな目の輝きができるのだろうか。

もしかしたら彼女は、その瞬間を精いっぱい生きていたのかもしれない。

今自分が置かれている状況と他人を比べることなく、だからすでに満たされていて、毎日、今できることを夢中でしていたのかもしれない。

まるでTVの中の憧れの人を見るかのように、自分ができないことをやっている彼女を、そのようなまなざしで見ていたからかもしれない。

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