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サヨナラではなく、またね

ついにこの日がやってきてしまいました。今日僕は旭川を出ます。

今溢れんばかりの旭川とそこにいる人やモノへの思いを書き残したいと思います。

僕と旭川の出会い

僕が初めて旭川に来たのはどうやらずーっと昔の幼い頃だったらしい。もちろんそのことは覚えていない。だから記憶の中での初めての旭川は高校2年生の秋。

実はこの年は特殊な年だった。というのも、僕はこの時高校野球の秋の全道大会出場のために来ていた。例年だと札幌の円山球場でやるんだけども、この年は旭川スタルヒン球場が何周年記念だったかで旭川開催だった。

この時から僕は今在籍している北海道教育大学旭川校に行きたかったので「いずれはここに住むのか!」とワクワクしてたのを鮮明に覚えている。

地元の苫小牧よりずっと都会だし、飲み屋も沢山あるし、大学生活楽しそうだなってすごく夢が膨らんだ。それが僕と旭川の最初の出会いだった。

期待外れだった北海道第二の都市

それから約一年半後、念願叶って教育大旭川校に入学した。近くにスーパーもイオンも飲み屋も何でもある。かと言って札幌ほどごちゃごちゃしているわけでもなく住みやすい。

高校時代は北広島や新札幌付近に行くことが多かったので、それよりも一段階都会になった感じで結構理想的だなと感じた。ここなら4年間やれそうだと思った。



しかし、飽き性の僕は段々とこの生活に面白みを感じなくなってしまった。確かに住みやすいけど刺激は無い。札幌の方がもっと人もモノも多い。これが第二の都市って乖離が大きすぎるな。と。

そうやって何とも表しきれないモヤモヤを抱えながら日々を淡々と過ごしていたのが最初の2年だった。

刺激を求めて海を越える

転機は大学2年生の2.3月。僕は初めて親の補助無しで北海道から出るチャンスが2度訪れた。

ひとつはゼミで行ったバンクーバー、もうひとつは野球部で行った福岡である。

正直言って最高に楽しかった。あぁ、求めていたのはこの刺激だと。そして同時に気づいた。俺は北海道にいるべきでは無いんだと。海を越えろと。

そこからはとにかく北海道の外に出た。大学3年生の春季リーグ戦が終わってから東京へ。その後福島に2度行き、10月には東京での就職を決意し、合計で6.7回は東京に行った。月に2回は確実に行っていた。

極めつけは昨年の2,3月のアジアンブリーズ。大学生活で2度目の国外、2度目の北米だった。もちろん北海道外や国外で訪れた地域で、それぞれ色んな発見をして多くのことを感じた。ただそれ以上に「海を越えること」の刺激がたまらなかった。

恐らく北海道に帰ってくることは無いだろう。そう思っていた。その矢先にコロナウイルスが僕の足を止めさせた。

コロナチャンス

あぁ、4年生の前期は授業が一つもないから日本一周でもしようと思っていたのに。最後の最後で旭川に閉じ込められた。野球も制限されて、僕の日常に刺激を与えてくれたのはプレステ4だけだった。

そんな退屈な日々が続いていたのだが、6月にいただいた1通のDMが僕の人生をいい意味で狂わせた。

ヴォレアス北海道の池田憲士郎社長からインターンの誘いの連絡だった。刺激を求めていた僕は二つ返事でやることにした。意外とノリと勢いだった。

そして人生野球色だった僕が初めてバレーという他のスポーツに携われるのもすごく楽しみだった。忘れかけてたワクワクが蘇ってきた。コロナ禍だから掴めたチャンスだった。

宝物は実は足元にあった

秋になると僕は野球の現役を引退した。世の中でも少しずつ緩和の雰囲気が漂った。飛躍の予感だった。

9月。僕は初めてプロバレーボールというものを観た。感動した。野球で苦しい思いばかりしていたからスポーツはネガティブなものだと思っていた。

Vリーグが開幕。アリーナは赤黒に染まる。旭川が一つになるのを感じた。コロナへの憤りをみんなで力に変えた。前を向いた。声は出せないけど熱狂した。

ヴォレアスの繋がりで旭川の経営者の方や議員として活躍されている方とも話すことができた。十分ここは北海道第二の都市じゃないか。こんなにエネルギーがあるじゃないか。

磨けば光る。磨こうとしている人が沢山いる。お前もこっちにこいよと言ってくれている。僕はここにいるべき存在なんだと強く思えた。

背伸びして、足を遠くに伸ばして刺激を求めた。何かそこに大事なものがあるんじゃないかと必死でもあった。でも本当に見つけたかった宝物はすぐそこにあった。僕の足元にあった。

僕の夢をかなえる場所はこの街と決めたから

旭川に必ず帰ってきて、この街でやりたいことを成し遂げたい。自分自身の存在価値を見出し、付加価値を生み出し、それを旭川に還元したい。そう思ってから槇原敬之の「遠く遠く」はいつも泣きそうになる。

存在価値を見出すためには競争が必要だと思う。だから東京に行くんだと今は意味を後付けしている。そうして揉まれることで僕のマーケットができるはず。いやそれを作らないと帰れない。

僕の本心に気づかせてくれたこの街やここにいる人たちには感謝しかない。だから恩返しをしたい。
必ず僕は旭川に帰ってきます。それまでサヨナラは言いません。必ずデカくなって帰ってきます。お礼もまだその時に。

それではみなさんまたね

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