『資本論』第1章のDialektik

第1章 商品

商品の物神性を主題化した節でマルクスが、まず商品の謎からではなく、ぎゃくにその外見的な自明性から説きおこしていることは根拠のあることだ。理論の力というものがもしもあるとすれば、その力はまず何よりも、日常の意識における自明性の世界を解体し、そこにかくされた問題を発見すること、そのことによってわれわれを、その感性と悟性さながらに包みこんでいる現存の世界〔『気流の鳴る音』では〈トナール〉と呼ばれる -- 引用者追記〕というものを、批判的に対自化し、実践的に止揚するための突破口をきりひらくことにあるだろう。

真木悠介『現代社会の存立構造』

 「商品」というものは、何も不思議のないもののように思える。我々は、労働によって「商品」を生産する。また、貨幣によって「商品」を取得し、それを消費する。これ以上の説明が必要だろうか。

 それは至極当然の感覚である。けれども、マルクスは、どうしても「商品」の分析から『資本論』を始める必要があった。なぜなら、人々が自明視している「商品」こそが、資本制社会における〈物神〉の原始形態であり、より高次の〈物神〉である「貨幣」や「資本」を成立させる基底だからである。資本の自己増殖過程としての資本制社会は、生産物が商品に転化し、商品が貨幣に転化し、貨幣が資本に転化することによって初めて存立する。そのため、資本制社会をその根底から把握するためには、生産物が「商品」という〈物神〉に転化する過程の分析から始める必要がある。

 しかし、このような事情をそのまま読み手に説明することはできない。なぜなら読み手は、あくまでも「常識」を身につけた一般人だからである。Dialektikを通して読み手を高次の認識へと導くことが『資本論』のコンセプトであるから、出発点は常識的な内容でなければいけない。

 そこでマルクスは、次のように説明する。資本制社会をほかの社会から区別する特徴は商品の圧倒的な豊富さであるから、資本制社会の研究は商品〔単数形〕の分析から始まる、と。これはあまりにも雑な導入であるし、商品の分析から出発する必然性もよく分からない。たしかに商品の豊富さは資本制社会の特徴だけれども、賃労働や大工業もその特徴に他ならないわけで、聡明な読者はここでマルクスに不信感を抱くことになろう。〔その不信感は、いわゆる「共産主義」への不信感とも無縁ではないはずだ。〕

 『資本論』を読み解くためには、マルクスのDialektikと並走しなければいけない。そこでは、マルクスが提示した内容をとりあえず認めるという素直な態度が求められる。『資本論』をDialektikに従って読み進めていけば、研究が商品の分析から始まることの意義が理解されるだろう。けれどもそれは、マルクスの提示を素直に飲み込んだからこその理解である。始めからマルクスに対してよそよそしい態度をとるようでは、いつまで経っても『資本論』を理解することはできないと思われる。〔批判的態度をとることは結構だが、あらゆる批判の前提には相手に対する根底的な理解が求められる。マルクスのDialektikを理解せずに『資本論』を批判することはまったくのナンセンスである。〕

 ゆえに、『資本論』は商品〔単数形〕の分析から始まる。そして、『資本論』の読解は、「商品の分析から始まる」ことをとりあえず受け入れることから始まる。


第1節 商品の二つの要素 -- 使用価値と価値

 商品とは人間の欲望を満たす対象であるとか、商品は「使用価値」と「交換価値」をもつとか、このような記述から第1節は始まる。しかし、ここで重要なのは、これらの説明はあくまで「常識」の確認に過ぎないということである。

 ここでマルクスは、アダム・スミスを念頭に置いている。スミスは『国富論』において、商品には使用価値と交換価値という二つの価値が備わっており、経済学は交換価値を研究対象とすべきだと主張した。多くの経済学者がこれに追従したことで、「使用価値と交換価値」は経済学の常識となっていたのである。Dialektikの出発点として、マルクスもひとまずそれを説明する。

 普通の経済学者であれば、「商品には交換価値がある」ことを前提にして交換価値の分析に進んでいくだろう。しかしマルクスは、立ち止まって考える。使用価値は、たしかに商品に内在している。しかし、交換価値は、商品に内在しているだろうか。

 よく考えてみれば、交換価値とは、ある商品と別の商品との間に示される「比率」に過ぎない。aクオーターの小麦とbキログラムの鉄が交換されるとして、それは二つの商品の交換比率を表しているだけである。交換価値は、異なる商品が交換の舞台に登場するときに現れるため、それは商品そのものに内在しているとは言えない。マルクスが分析の出発点に置いた「商品」とは、単数形の商品〔der Ware〕であり、ひとつの商品があるだけでは「交換価値」は見出せないのである。

 すると、「商品は使用価値と交換価値をもつ」という命題は修正されなければいけない。商品がもつのは、「使用価値」と、交換の場において「交換価値」として表現されることになる〈??〉である。マルクスは〈??〉に「価値」という名前を与えて、「商品は使用価値と価値をもつ」という命題が完成する。こうして第1節のタイトルが回収される。

 ここで注目すべきは、「使用価値」と「価値」が互いに独立していることである。たとえば、ある労働の生産力〔生産効率〕が高まると、その商品の交換価値が相対的に低下することは直観的に理解できる。すなわち、生産力の向上によって、商品の「使用価値」が変化せずに「価値」が低下している。あるいは、空気や野生の樹木のように、「価値」をもたずに「使用価値」をもつモノも存在する。

 このように掘り下げてみると、我々が慣れ親しんだ「商品」が秘めている奇怪な性質に直面する。商品とは、相互に独立した二つの要素が、何らかの超自然的な力によって結合している状態なのである。


第2節 商品に表現された労働の二重性

 商品は、「使用価値」と「価値」をもつ。そして、その二つの要素は独立している。以上が第1節の要旨である。〔これら以外の内容は、すでに棄却された常識か、後述される内容の伏線か、読み手の理解を促進するための雑談である、と言っても過言ではなかろう。私は敢えて、このような読解を試みる。〕

 商品がこのような二重性をもつということは、商品の生産における労働も二重性をもつことを意味する。すなわち、「使用価値」の源泉としての労働と、「価値」の源泉としての労働である。前者は「有用労働」と呼ばれ、後者は「抽象的人間労働」と呼ばれる。そしてもちろん、これらは互いに独立している。

 〔使用価値を生みだす有用労働は、人間が生物種として自らを維持するための必須条件である。有用労働によって人間は生存するのであり、それは人間と自然との物質代謝に他ならない。ゆえに、有用労働はあらゆる社会形式で普遍的に存在するため、資本制社会を特徴づけるものではない。よって、資本制社会を特徴づけるのは、価値の源泉としての抽象的人間労働である。〕

 「抽象的人間労働」という概念は、いかにして成立するか。それは、さまざまな労働の質的な差異を無視することによってである。縫製労働にしろ織物労働にしろ、どちらにも「労働そのもの」が含まれていると見なすことによって初めて、抽象的人間労働という概念が成立する。

 商品の「価値」を根拠づけるためには、抽象的人間労働という概念が必要である。そして、「抽象的人間労働」が成立するためには、さまざまな労働の質的な差異が無視されて、労働そのものという概念が用意されなければならない。しかし労働は、同時に「使用価値」を生みだす「有用労働」でもある。

 こうして、「商品」だけでなく、「労働」についても、その謎めいた性格が明らかとなった。労働においても、商品と同じように、相互に独立した二つの要素が結合されているのである。商品と労働から自明性を剥ぎ取り、二重性を帯びた奇怪なものとして見ることこそ、より高次の認識に到達するための跳び板となる。


第3節 価値形態または交換価値

 商品は「使用価値」と「価値」を併せ持つものであり、商品がそのような二重性をもつことで、労働も「有用労働」と「抽象的人間労働」を併せ持つものとなっている。

 我々は、単数形の「商品」から分析を始めて、商品と労働がもつ奇怪な二重性を発見した。けれども、単数形の商品の分析にとどまるかぎり、そこから先へは進むことができない。さらに分析を深めるためには、商品と商品の関係と、その関係の集積である商品世界の分析を始める必要がある。

 これはすなわち、「交換価値」が議題に復帰してくることを意味する。第1節にて、交換価値は商品と商品とのあいだにだけ発生することが示された。これまでの分析では単数形の商品を対象にしていたため交換価値は背景に退いていたが、分析の対象が商品世界に移行することによって、交換価値は舞台の中央に躍り出る。交換価値は一般に「貨幣形態」で表現されるので、交換価値の分析を通して「貨幣」の謎も解き明かされるだろう。

 さて、商品世界のもっとも単純な形式は、商品の種類が二つだけの場合である。商品Aが、自らの値札に「商品B」と書き込むことで、商品Aの「価値」が商品Bによって表現される。このとき、商品Aと商品Bの関係は対称でなはい。商品Aは、ただ自然形態〔使用価値〕として存在しているが、商品Bは、商品Aの「価値」を表現する価値形態を押し付けられる。すなわち、使用価値としての商品Aは、商品Bを自らの交換価値として宣言することで、自らを〈主〉として商品世界を立ち上げたのである。

 この商品世界において、商品Aの状態を「相対的価値形態」、商品Bの状態を「等価形態」と呼ぼう。他の商品によって自らの「価値」を表現している商品は相対的価値形態にあり、他の商品の価値表現に用いられている商品は等価形態にある。言い換えれば、商品世界の〈主〉となるのが相対的価値形態で、〈奴〉となるのが等価形態である。

 もちろん、商品Aと商品Bだけからなる商品世界においては、〈主〉と〈奴〉の逆転は容易に生じる。商品Bが、自らを使用価値だと宣言し、同時に商品Aを自らの交換価値だと宣言すれば、その商品世界の〈主〉は商品Bとなる。

 こうして、「商品」の二重性の謎が解明された。単数形の商品に注目しているかぎり、「使用価値」と「価値」という独立しているはずの要素が結合しているように見える。しかし実態としては、やはり使用価値と価値は独立していたのだ。商品世界において自らが使用価値であるためには、他の商品に価値の表現を押し付けなければならない。同様に、商品世界において自らが等価形態〔他の商品の価値の表現型〕であるときには、その商品は使用価値であってはならない。ひとつの商品が、同時に使用価値でもあり価値でもあることは不可能なのである。

 あるいは、「単数形の商品」という出発点が、すでに間違っていたとも言うことができる。商品世界の関係性に取り込まれているものが「商品」なのであり、そこでは〈主〉と〈奴〉の無限の逆転を通して、相対的価値形態と等価形態を両極として「商品」が振動する。このダイナミクスから「単数形の商品」を取り出そうとしても、商品を商品たらしめる商品関係の不在によって、商品の本来の姿は失われてしまうのだ。

 ついに「商品」の奇怪な二重性は、商品世界における関係性の振動へと解きほぐされた。同時に、「労働」の二重性も解きほぐされる。ある商品が相対的価値形態にあるとき、そこには使用価値を生みだす「有用労働」の残滓が見出される。一方、ある商品が等価形態にあるとき、そこには価値を生みだす「抽象的人間労働」の残滓が見出される。

 ここで、「使用価値」と「有用労働」においては神秘的なものは何もない。原始の時代から労働は「有用労働」としてあったし、人間を取り込む自然は「使用価値」に満ちている。〔有用労働の普遍性は第2節で、労働に依存しない使用価値については第1節で、すでに言及された。〕だから、問題は「価値」と「抽象的人間労働」にある。商品世界の成立とともに現れる「価値」と「抽象的人間労働」にこそ、商品世界の秘密が集約されているに違いない。

 ここまで、二つの商品からなる商品世界について考察してきた。ここで、商品の種類が増えていくとどうなるだろうか。

 手始めに、商品を一つ追加して、三つの商品からなる商品世界を考えてみよう。商品Aは、使用価値として商品世界の〈主〉になるために、商品Bと商品Cを自らの価値の表現型とする。しかし同時に、商品Aは〈奴〉にもなるのであり、商品Bもしくは商品Cの価値を表現する等価形態となる。商品Aと商品Bだけの世界には、「A:主/B:奴」と「A:奴/B:主」という二つの商品関係だけがあった。そこに商品Cが加わると、商品関係は六つになる。

 この商品世界にさらにもう一つ商品が加わるとき、商品Dは、相対的価値形態となるために商品A・B・Cにそれぞれ等価形態を押し付け、同時に、商品A・B・Cからそれぞれ等価形態を押し付けられる。そのため、この世界の商品関係は十になる。商品が五種類になれば、商品関係は二十まで増える。

 取り結ばれる商品関係は、商品が追加されるごとに階差数列的に増えていく。商品世界における関係性の過剰は、関係性の単純化への圧力を生じさせる。加えて、あらゆる商品が〈主〉たらんとせめぎ合う商品世界は極めて不安定である。こうして、商品世界の量的な変化は、資本制社会の存立にとって決定的となる質的な変化を用意する。

 等価形態を互いに押し付けあう水平的な圧力は、ついに特定の商品をスケープゴートとして排除する垂直的な圧力へと転化する。同時に、水平的な圧力は消滅し、商品世界は質的な変化を遂げる。

 水平的な商品世界では、すべての商品が他のすべての商品とそれぞれ関係を取り結んでいた。そこでは、たとえば商品Aは、商品Aをのぞくすべての商品の〈主〉であり〈奴〉である。ここで、商品Aをのぞくすべての商品が、一般的な関係を破棄して、商品Aとだけ関係するようになると、商品世界に垂直軸が生じる。

 等価形態を商品Aに押し付ける商品群にとって、商品Aは商品世界の〈奴〉である。しかし、商品Aが商品世界の一般的な等価形態になることによって、商品Aは普遍的な交換可能性を獲得する。そのため、特定の商品を入手するために前段階として商品Aが欲求されるようになり、ここでは商品Aがあらゆる商品に対する〈主〉として現れる。

 すべての商品の「価値」は、商品Aと交換可能であることによって表現される。同時に、すべての「労働」は、一般的な等価形態として商品Aに示される「抽象的人間労働」と同等だと見なされることになる。「価値」と「抽象的人間労働」を出現させる商品世界の秘密とは、一般的な「商品」の水平面を超越した垂直軸の存在に他ならない。

 こうして、商品Aは、あらゆる私的な欲望を集約して、唯一の普遍的な欲望の対象となる。商品群は相互に〈主/奴〉として関係することを止め、商品Aが商品一般の〈主/奴〉として扱われることによって、商品世界そのものが客観性を獲得する。あらゆる商品の価値が、商品Aとの関係において表現されるからである。

 商品Aのように商品世界の水平面から排除された特殊な商品こそ、「貨幣」に他ならない。商品世界における一般的な等価物として、貨幣は、あらゆる商品の価値尺度の役割を独占する。そして、あらゆる商品の〈奴〉であることによってあらゆる商品の〈主〉である、という貨幣の性格が、それを商品世界の組織者たらしめるのである。


第4節 商品の物神性とその秘密

 我々は、単数形の「商品」の分析から出発して、貨幣を組織者とする「商品世界」の構造を把握するに至った。モノとモノが水平的に関係を取り結ぶことで商品世界が作られるが、その世界は等価形態を互いに押し付けあう圧力に耐えられない。やがてその世界の水平圧力は垂直方向に解放され、商品世界の組織者としての「貨幣」と、その他の一般的な「商品」の群れが誕生する。

 しかし、現実に関係を取り結ぶのは、モノではなく人間である。生産物に値札をつけて「商品」とするのも、貨幣と引き換えに「商品」を購入するのも、いずれも人間である。すなわち、第3節までの考察においては、「人間」という存在が決定的に抜け落ちている。これは、どのような事態なのだろうか。

 商品世界は一般に「市場経済」と呼ばれ、それには固有の運動法則があるとされる。市場経済において、人間は全人格としては存在できず、貨幣をもつ購買者か、商品をもつ販売者としてのみ存在を許される。市場経済の運動法則は、それが人間の行為の集積であるにもかかわらず、まるで商品の群れが生命を宿して自律運動をしているかのような独特の客観性を帯びる。

 貨幣が析出される以前の商品世界においては、すべての商品がほかのすべての商品に対して〈主〉であろうとせめぎ合う。いや、現実に〈主〉であろうとせめぎ合っているのは人間なのだ。他者の生産物を手に入れることは、生産物に対象化された他者の労働を支配することである。そして同時に、自らの生産物を手放すことは、自らの労働を他者のもとに従属させることを意味する。このような人間相互の収奪のせめぎ合いが、生産物を媒介にして生じるとき、それは水平的な商品世界における商品群のせめぎ合いであるかのように見える。

 水平的な商品世界の商品群は、いずれ「貨幣」を析出して、それに普遍的な〈奴〉の役割を押し付ける。これも現実には、すべての人間にとっての普遍的な〈奴〉として「貨幣」が生みだされることを通して、すべての人間が貨幣に対する〈主〉となることを意味する。つまり、貨幣が析出された人間社会では、貨幣さえあれば人間はあらゆる他者を支配できるのであり、その他者支配は生産物を媒介にして生じる。ここで、媒介となる生産物が「商品」と呼ばれる。商品とは、人間の社会性を媒介していた生産物が、そのもののうちに社会性を宿していると錯覚された虚像に他ならない。

 そして同時に、貨幣なしにはいかなる支配力も行使できないため、他者の労働生産物を入手するために、貨幣を自らの〈主〉として、自らの労働を貨幣に従属させなければならない。こうして、水平的な人間関係の垂直軸として貨幣が析出されることによって、再構築された人間関係は「市場経済」としての客観性と普遍性を獲得する。すなわち市場経済は、あらゆる人間にとって外的かつ同質な存在として経験される。ここでは、すべての人間関係が貨幣と商品を媒介にして取り結ばれるようになる。

 人間関係が貨幣に媒介されるとき、人間相互の社会的な接触は、貨幣と商品の交換の瞬間に極限される。すなわち、人間が出会うことのできる他者は、交換の瞬間にしか現れない。市場経済で存在を許されるのは、商品を手放す販売者か、貨幣を手放す購入者だけだからである。商品の売買によって生活する人間においては、交換こそが唯一の「社会的」な経験とされ、生産や消費の過程は「私的」な経験とされる。

 もちろん、これは錯覚である。生産物が「商品」として認められるためには、それが有用労働によって生み出された使用価値でなければいけない。その有用労働は、他者にとっての有用労働であり、すでに社会的な労働である。しかし、人間社会から普遍的な他者としての貨幣が析出され、人間が貨幣を直接の目的として労働するようになると、あらゆる労働の社会性は隠蔽されて、労働が「私的」な行為だと見なされるようになり、代わりに労働生産物に社会性が付着して「商品」が誕生する。

 つまるところ「商品」とは、社会性を付与された労働生産物だったのである。生産物は、他の生産物と関係することによって商品世界を作り出し、自らは「商品」となる。これは言うまでもなく錯覚であるが、そのような論理を措定しないかぎりは「商品」の二重性を説明することができない。その錯覚性が隠蔽されて、何ら不思議はないものとして扱われることにこそ、「商品」の核心がある。

 商品世界においては、商品こそが社会性をもち、人間からは社会性が剥奪されている。人間は商品世界の市民ではなく、せいぜい商品や貨幣の媒体として存在を許されているに過ぎない。商品が人間の媒体なのではなく、人間が商品の媒体なのだ。その世界では、貨幣を獲得するために商品を生産する労働は私的な行為だとされ、商品にこそ社会性が宿る。けれども、商品が他者にとっての使用価値を生み出すからには労働は社会的であるはずであり、ここに論理上の深刻な困難が生じる。

 社会的な行為であるはずの労働を、私的な行為として見なすとき、労働の社会性はどのように処理されるのだろうか。この問題を解決するのが、「抽象的人間労働」という概念の発明なのである。それは、労働の社会性を説明することなく、質的に異なる労働を同質かつ交換可能なものとして等置する論理である。

 労働に表現される人間の社会性が、私的な行為そのものに内在する普遍的な性質として把握されるときに、あらゆる労働に共通する要素としての「抽象的人間労働」が誕生し、その媒体としての「価値」が商品に付着する。我々が分析の出発点とした「商品の二重性」は、私的な労働という表現の形容矛盾が端的に表現された状態だったのである。

 これまでで明らかになったように、「商品」とは人間の錯覚によって生み出された概念である。しかし人間は、その奇怪な「商品」を、何ら不思議のない自明なものと見なす。実態としては生産物を媒介にして人間が相互に関係しているのだが、人間を媒介にして生産物が相互に関係していると錯覚されるときに、我々の前に「商品」が現象する。

 人間の認識の産物が、それ独自の生命を宿し、まるで人間にとって外的な存在であるかのようにふるまう。より正確には、人間のふるまいが、それを外的な存在として固着させる。これは、諸宗教における「神」の原理に他ならない。すなわち、商品は〈物神〉である。市場経済においては、人間の共同的な崇拝によって、生産物に物神性が付着して商品となる。

 ここで生産物に付着した社会性は、人間から剥離したものである。人間の社会性には共同性と収奪性の両極があるが、共同性の表現であるはずの労働は「私的」な領域に閉じ込められ、収奪性の表現であるはずの支配は貨幣に媒介された「交換」へと変質する。さらに、交換の瞬間に切り詰められた社会的接触は、それが等価交換の原理にしたがうと見なされることで、社会性を持ち込むことなく遂行される。こうして、独自の運動法則に従って社会的にふるまう商品群の対応物として、あらゆる局面において「私的」に行為する存在としての人間像が確立する。

 最後に、商品の物神性は、経済学によって完成する。経済学は、「商品」や「貨幣」といった概念を所与の前提として、「市場経済」の論理を組み立てる。〈物神〉としての「商品」の存在を自明な前提と見なす経済学は、市場経済における神学に他ならない。

 『資本論』第1章を通して、何も不思議のないものとして見なされている「商品」が、実際には現代社会の〈物神〉として成立していることが解明された。第2章からは、この商品物神を基礎として、さまざまな〈物神〉が累乗的に成立していく構造が明らかにされる。

 第1章が終了した時点では、人間社会はまだ水平的である。そこでは誰であっても、他者の労働を支配するために、自らの労働を他者に従属させなければならない。しかし、水平面から「貨幣」が垂直に成立していることによって、人間が直接的に関係するのは「貨幣」と「商品」に限定されており、人間相互の直接的な関係は停止されている。ここに、人間相互が垂直的に関係し、人間社会が垂直的に構造化される契機が潜在している。



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