Dialektikとしての『資本論』

 『資本論』の特徴は、その全体がDialektikによって貫かれていることである。Dialektikとは、ギリシア哲学における「問答法」、ヘーゲル哲学における「弁証法」に対応するが、ひとまず「対話の技法」と理解しておけば問題ない。マルクスは『資本論』を通じて、読み手と対話しようとしているのだ。〔マルクスにおいて、Dialektikは一切の神秘的な含意を剥奪されている。〕

 人間は、対話を通じて高次の認識に到達することができる。たとえば、ここに一つの物体があるとしよう。ある人間が、それは「円形」だと主張した。すると別の人間が、それは「三角形」だと主張した。これらの主張は、一見すると矛盾している。しかし、彼らが対話することで、彼らが見ていたのは「円錐形」だということが把握されるのである。「円錐形」という認識は、「円形」と「三角形」の双方を説明するため、彼らは対話を通して高次の認識を得たことになる。〔もちろん、ただ対話するだけでは高次の認識に到達できないかもしれない。だからこそ、それは「技法」として確立されるのである。〕

 人間はさまざまなドクサ〔思い込み〕に囚われている。しかし、それは悲観すべき事態ではない。なぜなら、ドクサにおける相矛盾する認識を突き合わせることによって、より高次のドクサへと到達できるからである。ところで、なぜ高次のドクサに到達する必要があるのだろうか。その理由はひとつではないが、マルクスが強く意識していたのは、低次のドクサは支配関係や権力関係を隠蔽する思想体系〔イデオロギー〕になるということだと思われる。すでに完成されて不可視化された〈社会〉を、認識のなかで可視化することを通して、〈社会〉の支配関係や権力関係に抵抗するための足場を作り出すこと。これこそが、『資本論』に託されたマルクスの実存であろう。

 そのために『資本論』は、「専門書」ではなく「一般書」である必要があった。専門家にしか読めないような文章であれば、それはイデオロギーへの抵抗戦略とはならない。資本制社会の複雑怪奇な構造を、いかに人々に理解してもらうか。そのときに、Dialektikが存分に発揮されるのである。

 Dialektikにおいては、低次の認識から出発して、高次の認識に到達することができる。これはまさに、人々に資本制社会の構造を理解させるための最適な手法である。そのため『資本論』は、最初は事実確認とも言えるような常識的な説明から出発し、その「常識」に内在する矛盾を足掛かりにして認識を徐々に高次化させていき、全体を読み終えるころには資本制社会の構造を理解できているような、アウフヘーベンの連続として構成されている。

 これは確かに緻密な構成である。常識的な認識に潜在する矛盾をするどく指摘して、その矛盾を解きほぐすことを通して認識を高次化させる過程は、まさに名人芸と言ってよい。しかし、Dialektikが巧みに用いられているからこそ、独特の読みにくさが生じていることも事実である。なぜなら、『資本論』における認識の次元がひとつではないことによって、テクストが内部矛盾しているように見えるからである。

 一部の人間から見れば、『資本論』はたいへん読みやすい書物である。常識的な認識を「常識」として受け止めて、マルクスのDialektikに並走して認識を高次化させていけば、『資本論』はスムーズに理解できる。しかし、常識的な認識を出発点にできない人や、どこかで認識の高次化についていけなくなった人、あるいはそもそもDialektikという視点を持たない人にとっては、『資本論』はひどく難解な書物として映るのである。

 そこで私は、『資本論』におけるマルクスのDialektikを、より分かりやすく再構成してみようと考えた。とりあえず第一巻だけでも構造を明らかにしておけば、人々が『資本論』を直接読めるようになるだろう。せっかく「分かった気になる」のであれば、入門書や解説書に頼るのではなく、マルクスのDialektikに乗ってみることを勧める。



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