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小学生

小学生の頃は習い事がいっぱいでした。公文に始まり、習字、水泳、ミニバスケ。バスケ以外どれもほとんど好きな事ではなかったですね。公文は近所の公民館でやっていてとても近いのに行くのが嫌でいつも終わるギリギリに行ってました。小さい用紙に問題が裏表書かれていて、それをノルマ達成するまでやらされる。火、木の二回で、冬は石油ストーブがあって、用紙を先生に提出するついでに小さい消しゴムをそのストーブの上に乗せて焦がす。そんな密かなイタズラをしている思い出しかありません。

習字も家のすぐ真裏にあって、歩いて10秒で着くのに行くのが億劫でした。先生の名前が「御手洗」と書いて「みたらい」先生だったのを覚えています。小学一年生から始めたのに、幼なじみの中村くんが4年生くらいで入って来て、半年くらいで僕より上の段に行った時に挫折しました。初めて、人に追い越されたという感覚を味わった瞬間ですね。それからさらにダラダラやって6年生までやったけど、字は未だに苦手ですね。書くことは好きですが。

水泳もこれまた自分が行きたいと言ったのに全然行かなかった習い事です。本当に行きたくなくて、いつも水泳教室の近くの友達の家に行って遊んで、水着を濡らして家に帰るというそんな感じでした。水着が濡れていれば行ったことに出来ると思ってたんですね。あさはかな考えです。どうせばれてたんだろうと思って、こないだウチの母に聞いたら、全然気付いてなかったみたいです。以外と成功してたんですね。水泳はバタフライまで行って辞めました。だけど泳ぎは結構得意です。

そんな中、ひとつだけ夢中になれたのがミニバスケです。三年生から始めましたが、当時スラムダンクが流行った頃で、みんなバッシュを買ったらまず踏まれるというあの謎の習慣もやってましたね。僕はバスケを始めた頃からぽっちゃりしてましたが、いわゆる動けるデブの典型で、6年生ではキャプテンもやってました。

当時はまだ体罰が当たり前の頃で、僕は頭を叩かれるくらいでしたが、同期の子はボコボコに殴られてましたね。その先生のことは本当に嫌いでしたけど、バスケが好きだったので続けていました。成績は全敗するくらい弱いチームでしたけどね。本当に弱かったんです。僕が入った頃はまあまあ弱いチームだったのが、僕が5年生くらいから、最弱チームになりました。

そんな中でも少しだけ強くなった時期があったんです。先生が何処かから仕入れてきたディフェンスのフォーメーションがハマって、相手のオフェンスをかなり封じ込めたんです。だけど僕たちはとにかくシュートが決まらないチームだったので、相手をいくら抑えても点差が縮まっただけで、負けることには変わりありませんでした。

そうこうしている内に、最後の試合も負けてしまいました。僕は泣きましたねえ、本当に泣きました。負けた悔しさってよりは、みんなでやるのが最後なんだという寂しさだけでしたけど。

唯一夢中になれたのがミニバスケでしたが、やっぱり思い出すのはあの顧問の先生です。とても嫌いでした。子供の心に戻って思い出しても、あの先生は自分の憂さ晴らしというか、なんの大義もなく僕らを叱っていたように思えるんです。あの頃からそれがすごくわかっていたからこそとても嫌いだったんだと思います。

そんな嫌いな先生ですが、大人になって見かけたことがあるんです。結婚前、妻を実家に連れて行ったときです。僕は福岡出身なんですが、福岡の名所と言えば太宰府くらいなんで、そこに案内した時です。小学生の団体が、太宰府駅の前に居て、その子供たちを引率していたのがそのミニバスケの先生でした。

普通こういう時ってどうなんでしょう。子供の頃いくら嫌だった先生でも、大人になれば良い思い出として忘れるものなんでしょうかねえ。パーっと懐かしくなって、「先生!」って声を掛けるのかなあなんて思ってましたけど、その先生を見た瞬間、圧倒的に嫌な思い出が溢れてきて、逃げ出したい気持ちになりましたね。全然良い思い出なんかになってなかったです。逃げるように妻と歩いたのを覚えています。

家に帰って母にそのことを言ったら、「あー、あの先生ね。私も嫌いやあ。」ってそれだけでした。母も嫌いだったようですね。

当時も今も嫌いな人はこの人だけです。

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