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「夜明けと蛍」がドラマに使われることのモヤモヤを考えてみる。

 1月17日から放映が始まったドラマ『夕暮れに、手をつなぐ』のCMにおいて、n-bunaによるボカロ曲「夜明けと蛍」が使用されたことが大きな話題を呼んだ。


 ところが、Twitterで検索をかける限り、この話題性はどちらかと言えば否定的な言及をする人たちによって起こったものに見える。以下は、その一例である。

 自分も一人のn-bunaファン、あるいはヨルシカファンとして、思うことがあったのが事実だ。現に、その話題が沸騰した際にこのようなツイートをしている。

 この段階ではまだ主題歌が発表されていなかったため誤解しているが、『夕暮れに、手をつなぐ』の主題歌は「アルジャーノン」であって、「夜明けと蛍」ではない。そして、実際に放送されて判明したことだが、ドラマ内では他にも「春泥棒」や「ただ君に晴れ」などの楽曲が使われており、まるでヨルシカ全面タイアップのような風体だ。上記の自分のツイートは流石に言い過ぎとしても、ではなぜ「既存の楽曲がドラマで使われる」ことにモヤモヤした感情を抱いたのか、自分なりに言語化してみたい。

 ちなみに、この文章はヨルシカ(n-buna)及びドラマを否定するものでは一切ない。自分が普段研究している美学分野では特にそうだが、何かの作品を鑑賞した際、「なぜこの作品を○○だと思うのか」を掘り下げることは、多少なりとも意義がある。


 そもそも、「夜明けと蛍」は2017年に発表された楽曲だ。この曲は何かのタイアップのために書き下ろされたわけではない。感傷的でセンチメンタルなテイストも手伝い、鑑賞者がこの曲を聴く際には過度な自己投影を行って没入するような聴き方をすることが多い。コメント欄の感想が、曲への印象だけではなく、自分の記憶や状況に引きつけたような評価の仕方で埋め尽くされているのが、その証左である。
 このような鑑賞方法を可能にしているのは、〝物語性の希薄さ〟に他ならない。固有名や具体的な地名が飛び交うヨルシカの歌詞とは違い、「夜明けと蛍」はことさら平坦な作りが成されている。

形のない歌で朝を描いたまま
浅い浅い夏の向こうに

冷たくない君の手のひらが見えた
淡い空 明けの蛍

「夜明けと蛍」

 固有名詞を排除した抽象的な歌詞は、そのぶん鑑賞者が干渉できる余白を広くする。「夜明けと蛍」のようなセンチメンタルなテイストの曲にとってはぴったりだ。この場合、鑑賞者は「曲の物語性を楽しむ」のではなく、「自分の物語を仮託して楽しむ」という在り方を採ることになるだろう。

 だからこそ、この歌を初音ミクが歌っていることの必然性が生じる。歌い方に感情を排したボーカロイドだからこそ匿名性は強調され、より多くのリスナーが各々の物語を片手に「夜明けと蛍」という船に乗り込んでくる。この不思議な船は、幾人もの鑑賞者を温かく迎え入れてくれるだけでなく、それぞれが異なる進路を示していたとしても、須くその要望に応えてくれる。

 では、ここで「夜明けと蛍」という楽曲に、〝巨大な物語〟が接続されるとどうなるだろうか。これまで自由に操縦していた舵は方向転換が効かなくなり、何かに引き寄せられるように進路変更を余儀なくされることだろう。商業的には公式とも呼べるような〝正しい物語〟の存在に脅かされた人々は、やがて「物語-楽曲」の図式から疎外されていく。

 もしも「夜明けと蛍」がタイアップ曲であれば、このようなことにはならない。初めから物語が記されていれば、自らの物語を仮託しようなどとは思わないだろう。いわば、「夜明けと蛍」で起こっているのは物語の「上書き」現象なのだ。

 物語疎外論とでも言うべきこの現象は、当然初期マルクスが述べた「疎外論」を根底としている。かつて『経済学・哲学草稿』の中でマルクスは類的疎外を除くと、3つの疎外を指摘した(類的疎外に関しては本稿と関係性が薄いため除外する)。労働生産物からの疎外、やりがいからの疎外、人間からの疎外である。

 振り返ってみれば、ヨルシカ……というよりn-bunaは、実に分かりやすくこの疎外論を踏襲していた。『夏草が邪魔をする』から『エルマ』で描かれたエイミーも、『盗作』における音楽泥棒も、基盤となるのは商業主義的な音楽へのカウンターであり、「それらの曲は本来の芸術から疎外された偽物」というのが彼らの信条だった。そのような偽物ではない「本物」の芸術こそが、空虚な心の穴を埋めてくれる。

 ではn-bunaのいう「本物の芸術」とは何か。それはエイミーにとってのエルマの音楽であり、泥棒にとっての妻が弾いた「月光」なのだが、より分かりやすくいえば「心を打つようなイミテーション」だと言うことができるだろう。作者が誰か、パクりか否かなどの客観的な情報を捨象した鑑賞を第一とするn-bunaにとって、模倣であることは偽物であることを意味しない。むしろ何かの模倣こそが、「本物」を生み出す。エルマがエイミーの旅路を辿るのも、エイミーがエルマの音楽に近づこうとするのも、いずれも模倣こそが真の「美」を連れてきてくれるという発想から始まっている。

 話が逸れたが、ヨルシカの扱ってきた主題には、「疎外された人間が本物(と思える)作品によって欠落を埋めようとする」姿勢が多く含まれていた。このような図式が楽曲中に含まれていたからこそ、我々はヨルシカの曲を自分にとっての「本物の芸術」のように感じ、欠落を埋めるピースとして取り扱うことが出来たのだ。彼らが熱狂的なファンを獲得した一因は、「ストーリー内で疎外論を構造化し、鑑賞者にも同様の体験をもたらすような効果を生んだ」面があったのではないか。

 となれば、ヨルシカに熱を上げるようなファンが「夜明けと蛍」のドラマ内使用に違和感を示すのは当然だ。これまでタイアップとして書かれてきた「花に亡霊」や「左右盲」とは異なり、今まで白紙だった「夜明けと蛍」に物語が上書きされたのだから(n-bunaの楽曲とヨルシカの楽曲を同じような鑑賞方法で聴く時点でおかしい、という正論は一旦置いておく)。

 n-bunaがオスカー・ワイルドの「芸術は人生を模倣する」に端を発する唯美主義的な思想を展開させ、余計な情報を排除した純粋でクオリア的な鑑賞経験を重視しているのは有名な話だ。彼に言わせれば、芸術作品は「自分にとって価値があればいい」。この論に則れば、「夜明けと蛍」がドラマで使われたからといって、楽曲の価値が揺らぐことはないと言えるかもしれない。ただしそれは、「楽曲-自分」の図式においてのみである。その図式が保たれる限り、自分にとっての価値が変わることはない。自分が向き合っている対象は楽曲だからだ。ところが、「楽曲-物語」の図式には自分が含まれておらず、自分が向き合っていた対象は消失する。対象が変化した/消えたこの段階においても「価値が変わらない」と言うのは、端的に欺瞞だろう。

 『盗作』と『創作』を出して以降、ヨルシカの在り方に変化が生じ始めたのは確かなことだ。ドラマの主題歌である「アルジャーノン」は『アルジャーノンに花束を』からだろうが、ヨルシカは果たしてチャーリイかアルジャーノンなのか、どちらだろう。歌詞で言われている「ゆっくりと変わっていく」のは、我々の方なのだろうか。

 いずれにせよ、このようなことを思ってしまい、自分との齟齬を感じること自体、n-bunaが「自分だけの音楽」を貫徹している証拠でもある。そう解釈する限り、僕は彼の反転的な一貫性と音楽を、また愛さざるを得ないだろう。


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