見出し画像

コロナ禍で、ひきこもりの専門医斎藤環が探る「多様な感受性、認容性に配慮した繊細さ」

 精神科医斎藤環が、ひきこもりの専門家ならではの視点で、コロナ禍で生まれた「オンライン」という距離、暴走する正義などを社会が新たに体験している今こそ「個人がもつ感受性、認容性は多様であり、それを・・・もっと繊細な配慮ができる社会に向けて回復していく手順」を探るチャンスだ、として以下のように述べている。(2020年8月1日毎日新聞)

【視点1 対面に潜む暴力。許容度には差がある】
 オンラインでのやりとりが増えたコロナ禍で改めて見えてきたのは、人と人が直接会うこと自体に潜む暴力―「臨場性の暴力」と、その暴力をどこまで許容できるかという個人の感受性、認容性が多様であるということだ。「暴力」というと強い言葉だが、善しあしでなく、自他の境界を越えて迫ってくる力を暴力と呼ぶ。あるいは重力といえるかもしれない。発達障害やある種の認知特性を持った人たちにとって、臨場性の暴力は以前から自明のことだった・・・
オンラインでのコミュニケーションでは、暴力が対面と比べ小さくなる。・身体的差異がもたらす非対称性は暴力が生まれる原因となるが、画面越しでは差異は感じにくい・オンライン会議でのシステム画面では、立場にかかわらず、等間隔に参加者の映像が映し出される・距離感がなくフラット化された分だけ、発言の平等性が担保されるかもしれないとも感じている。
・・・臨場性には暴力があるということを多くの人が共有できた今こそ、臨場性の暴力を緩和する手法を検討する大きなチャンスだ。

【視点2 リスクを負う尊厳/失敗する権利】
 福祉の考え方の中に「Dignity of risk(リスクを負う尊厳)」という発想がある。「Right to fail(失敗する権利)」とも言われる。・・・障害があっても、リスクを負い主体的に生きる権利は、健常者と同等にもっている。この発想を普遍化すれば、我々は誰しもリスクを負う尊厳をもっていると言えるだろう。・・・コロナ禍では、感染リスクを下げることがすべての行動に優先されている。・・・不潔の回避や健康重視という発想が行き過ぎ、健康イコール正義であり、不健康はことごとく悪だというような貧しい規範がうまれつつあるように思う。・・・ゼロリスク社会ではなく、リスクを負う尊厳を大切にする社会の有り様を、感染防止対策と並行して考えていく必要がある。行き過ぎた自粛ではなく、でもリスクも下げたいという人々の切実な思いに、もっと真剣にかつ繊細に向き合ってほしい。

 斎藤環さんのいう臨場性の暴力は、個人対個人だから起こる「パワハラ」や「セクハラ」にも通じる。『個人がもつ多様な感受性や認容性に繊細に配慮できる社会とは?』を考えるとき、自分より繊細な感受性や認容性を配慮できる人間になれるか?、自分はその暴力を使っていないか?と自問になる。オンライン画面の距離感が、臨場性の暴力を緩和し対等性の確立につながるかは、その場をコーディネートする人間にかかっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?