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世間は「簡潔」という名の短文を求めるが、深い思考は長文になる

私は思考が大好きです。そして、思考好きだからこそぶつかるNoteのタイトルへのジレンマについてお話したいと思います。
私は思考の中でも世界の真理を追究する事がとりわけ好きです。そして、私の中での真理は全ての物事の本質が究極に集約されている概念に近いものです。ただ、概念とは違う部分はおそらく存在しているはずだからです。例えば、余弦定理とチェバの定理はそれぞれ別の定理ですが、どちらも三角形の本質というより深い部分、より真理に近い部分でつながっています。私は色んな現象を観察し、より深い部分、より真理に近い部分を探求しています。これ以上言葉を重ねても伝わらないと思い、図に落としてみました。

イメージ図

私がNoteに思考を書き留めるとき、書き方において2択を迫られます。私しか理解できない言語で書くか、出来るだけ一般的な言語で書くかです。これは、紆余曲折あり(理由は後日にでも)、一般的な言語で書こうと決めました。次に一般的な言語で書いたとき上の図のような問題に直面するわけです。
この図で一番伝えたいのは、言語化の限界が近いような内容をタイトルという短文で伝える場合、確実に情報を落とす事になるという点です。しかも、落とす部分は思考の根葉の部分ではなく幹の部分ですし、なんなら落とす部分の方が多いわけです。なので、どれを選択するかいつも悩んでしまいます。

世間でいう「簡潔」はいつしか「短文」を意味するようになった


これは、何もNoteのタイトルだけの話ではないです。ビジネスにおいて「要点を端的に述べる」は常識です。はっきり言ってビジネスにおいてやり取りしなければいけない情報なんてたかが知れているからです。その前提であれば、「簡潔」=「短文」が成立します。そして、さらに他の事にも拡大していくと、日常会話においても同様の事が当てはまります。すると、いつしか世間的感性では、「簡潔」=「短文」が常に成立すると錯覚してしまうわけです。これは、私のような探求心の強い、思考大好き人間にはつらい部分があるわけです。私は何も冗長な文章に価値を求める訳ではない(冗長な文章にも価値はありますが)です。ただ単に、簡潔に思考をまとめても本質に近づけば近づくほど、言語の性能限界に近くなり、言葉を重ねるしかなくなってくると言いたいわけです。

今日はいったんここまで

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