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連載第1回 『ケアの贈与論』

 今月から、小局初の試みのウェブ連載が始まります!!
 記念すべきお一人目としてご執筆いただくのは、「贈与」を切り口に数々のご著書を上梓なさっている、明治大学の岩野卓司先生です!

 岩野先生と担当編集者(編集部・赤羽)との最初の仕事は『贈与論──資本主義を突き抜けるための哲学』(青土社、2019)にさかのぼり、現在の職場に移ってからも、『野生の教養──飼いならされず、学び続ける』(2022)、『はじまりのバタイユ──贈与・共同体・アナキズム』(2023)、『暴力の表象空間──ヨーロッパ近現代の危機を読み解く』(2024)などでご一緒させていただきました。

 『ケアの贈与論』についてご相談差し上げたのは2021年春ごろです。「贈与とケアは似ているような……」という話を岩野先生が真正面から受けとめてくださり、満を持して連載開始へと至りました。ちなみに、贈与とケアをめぐる岩野先生の論文として、「ケアにおける贈与と暴力」(『暴力の表象空間』所収)が現時点で読むことができます。

 さて、連載初回では、『ケアの贈与論』の見取り図となる「イントロダクション」を前後篇で公開します。現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理を「贈与」の思想と結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。

イントロダクション(前篇) ケアと共同性

岩野卓司

 今の時代は不安に満ちている。

 雇用の不安、老後の不安、先行きの不安。何となく生きづらい、安心できない社会である。

 情報が足りないわけではない。メディアやネットには情報はありあまるほどある。たしかに情報は多いのだが、妙に実感に乏しい。正反対のことを言っているものもあれば、やれ陰謀論だ、やれフェイクだと言われているものすらある。何を信じていいのかよくわからないのが実情ではないのか。間違った情報を信じて失敗しても、自己責任ですねと片づけられ終わってしまう。

 そういった不安が生じる原因のひとつに、人間関係の希薄化が挙げられる。かつて社会における関係の基盤となっていた地縁や血縁の強いきずなは、今日では都市部を中心にしだいに失われつつある。誰の気兼ねもなくコンビニの自動レジやネットショッピングで買い物もできるが、その一方でご近所に誰が住んでいるかもよく分からない。親戚づきあいも昔ほど盛んではなく、実の兄弟でも遺骨を引き取らないという話も聞く。古い価値観から見れば、無縁化が進んでいるということになる。

 だから、他者との関係を考えなければならない。無縁という状況で、どうこの関係を考えるべきか。地縁や血縁が失われつつある時代に、新たな縁をどうつくっていったらいいのだろうか。共にあること、つまり共同性を根本的に考え直さなければならないのではないだろうか。

 今の時代、共同性を考えるにあたって、多様性を尊重することが必要とされている。そのひとつの試金石として、ケアがある。

 全共闘の活動家で、水俣病を告発する闘いにも参加した最首悟は、長い間ダウン症の娘を世話してきたが、次のように述べている。

 無神経に「共に生きる」といわれると、重い知恵遅れの子と暮らしている身としてはムシャクシャしてしまうのであるが、しかし同時にその子の存在が、人間の根源的な共同性を想起させることも事実である。そして、社会主義思想も共産主義思想も、その根源的な共同性に思いをいたして、というより、共同性が危うくなる一方の状況の打破をめざして生まれてきたことも、忘れるわけにはいかな【1】

 これまで僕たちは人間関係のモデルとして健常者どうしの関係を当たり前のように考えてきたが、ケアのテーマを探求する際には、障がい者との関係に向き合わざるをえないのだ。このことが人間の共同性を考えるにあたって、重要なのではないだろうか。ケアの対象となる障がい者・子供・高齢者を考慮にいれることで、「根源的な共同性」に着目することができるだろう。

 それでは、この「根源的な共同性」をどう考えたらいいのだろうか。この共同性には少なくとも三つの条件が必要だ、と僕は考える。

 ひとつは、他者との非対称な関係である。フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは『全体性と無限』のなかで、他者との関係は非対称であると主張した。他者は〈私〉と同じものではないのだ。レヴィナスは、他者を自我と同じ型のものであるという見方を批判する。西欧の哲学の伝統は他者を自己と同じものや分身と見なしてきたのだが、これは他者を自己と同一視することで暴力的に支配することにほかならない。しかし、レヴィナスによれば、他者は決して自己に還元できない。他者の他者性は尊重されなければならないの【2】

 この考え方は、ケアにおいても重要ではないだろうか。健常者は障がい者とは非対称な関係にあるのだ。それを同型で考えてしまうと、多くの問題が生じる。健常者は障がい者よりも圧倒的に強いからである。そうであるがゆえに、善意の上で同じように扱っても、そこに意図せざる暴力が生じることになる。

 社会における共同体や共同性を構想するとき、多くの場合に健常者どうしの関係を前提にしてしまっている。その結果、最首の語るような「根源的な共同性」を見落としてしまう危険があるのだ。この場合、健常者はレヴィナスが糾弾する西欧の哲学者たちが犯した過ちと同じ前提を共有してしまっているのではないだろうか。

 この「根源的な共同性」を考えていくために、もうひとつ考慮に入れたいのが、キャロル・ギリガンの「ケアの倫理」である。彼女は『もうひとつの声で』のなかで、二つの理想について述べている。ひとつは、「自己と他者が同等の価値をもつ存在として扱われ、力の違いにかかわらず物事が公正になるという理想像」であり、もう一つは、「すべての人が他人から応えてもらえ、受け入れられ、どの人も取り残されたり傷つけられたりしないという理想【3】 」である。前者は正義の理想である。そこでは、他者は力関係から奴隷にされたり権利を奪われたりするのではなく、身分や力の違いがあっても同等に取り扱われる。これは現代の民主主義の政治などで必須の理想である。それに対して、後者はケアの倫理の理想である。自己と他者が同等であるという論理からこぼれ落ちてしまうものを救う考え方である。能力に差があっても同等に取り扱われれば、そこに困難が生じる可能性がある。各人に応じて対応することで誰も取り残されることはないのだ。ギリガンによれば、正義の考えは男性中心の論理に基づいており、ケアの倫理は女性に特有のものである。

 これまでは倫理においても男性中心の正義の思想が支配的であり、女性がケアの倫理によって声をあげるのは難しかった。ケアの倫理は抑圧されるか無視されてきたのだ。しかし障がい者と向き合い、そこに新たに共同性を見ていくためには、ケアの倫理が要求される。ただ、この倫理は女性特有のものとみなすべきではない、と僕は思う。どんな人間も男性性と女性性を持ち合わせているからである。男性も自分のなかのケアの声を抑圧してきたのである。誰もが自分のなかにある複数の声に耳を傾けるべきなのではないだろうか。このケアの倫理を考えることで、「根源的な共同性」が見えてくるのだ。

 最後のひとつは、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユの文句「共同体(性)をもたない者たちの共同体(【4】) 」である。これは友人の思想家モーリス・ブランショがバタイユの草稿から見つけて自著『明かしえぬ共同体』のエピグラフに置いた文である。バタイユもブランショも政治、宗教、文学の次元での共同体の根本について考えていたのだが、他者との関係のいちばん深いところには、何も共有しない者どうしの共同性が存在しているということなのだ。これはケアにおける他者との関係にもあてはまる、と僕は思う。そこには共同性の極限が垣間見られるからである。ふだん僕らはあまり意識しないが、同じ言語を話し、なに不自由なく会話を楽しみコミュニケーションをとっている。さらには、同じ話題、同じ思い出、同じ好みなどを共有している。介護される者も最初は介護する者と多くの話題などを共有しているだろう。しかし、介護される者が死にゆく者になるにつれて、ひとつひとつ共有のものを失っていく。言葉も通じなくなると、話題・思い出・好みについて通常のコミュニケーションがとれなくなる。その最たる例は、寝たきりで意識もない重度の障がい者である。何かを共有することでのコミュニケーションはとれないのだ。しかし、そういう者たちが何かに反応し答えたとき、そこにはある種の共同性を認めるべきではないだろうか。そこには、あらゆるものを剥ぎ取ったときにあらわれる、他者との関係が存在する。何も共有しないところであらわれる共同性に、ケアの本質が垣間見えるのではないだろうか。

 それでは、この「根源的共同性」はケアを通して贈与とどうかかわっているのだろうか。次回はそれについて考えてみよう。  

連載第2回は、明日4月27日(土)公開予定です。 

【1】最首悟『星子が居る──言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』世織書房、1998年、6頁。
【2】E. Lévinas, Totalité et Infini. Essai sur l’extériorité, Martinus Nijhoff, 1961.『全体性と無限』(上・下)熊野純彦訳、岩波文庫、2005年、2006年。
【3】C. Gilligan, In a Different Voice, Psychological Theorie and Women’s Development, Harvard University Press, 2003, p. 63.『もうひとつの声で』川本隆史・山辺恵理子・米典子訳、風行社、2022年、173–174頁。
【4】G. Bataille, Œuvres complètes, V, Gallimard, 1973, p. 483, M. Blanchot, La communauté inavouable, Éditions de Minuit, 1983, p. 9.『明かしえぬ共同体』西谷修訳、ちくま学芸文庫、1997年、9頁。
*訳文・訳語に関しては既訳と一致しない場合もある。

執筆者プロフィール

岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。


関連書


岩野卓司先生の関連書(小局刊)

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