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殺されたミンジュ~復讐の神、贖罪の神、沈黙する神

キム・ギドク 監督、脚本、撮影、編集、製作
2014年5月22日 韓国公開
2014年9月6日  第71回ヴェネチア国際映画祭ヴェニス・デイズ部門オープニング作品&作品賞
2016年1月16日 日本公開
原題訳 1対1...私は誰なのか
英題 ONE ON ONE
宣伝文「少女が葬り去られた日、良心は全てこの世から消えた」

 キム・ギドク「私はこの映画を撮りながらとても苦しみ、取り終えた後もしばらくの間、苦しみました。それはおそらく私自身、民主主義に対して無関心になり、放置し、自分の幸せのためだけに生きてきたという自責の念があったからです。」(Real Sound掲載)

(物語)
 表層の物語を要約すると次のとおり。
 ひとりの女子高校生が、謎の組織に暗殺される。事件は闇に葬られ警察は動かない。1年後、彼女の復讐を果たさんとする奇妙なテロ集団が現れる。真っ先に拷問を受けた実行犯のオ・ヒョンは彼らの正体を突き止めるべく、ひとり跡を追う。彼が最後に見たテロ集団の首領とはいったい誰だったのか。我々はオ・ヒョンの目を通して、事件の全貌を知ることになる。

 どう見ても少女の父親と、日々の鬱屈に沈む人間たちによる復讐譚のはずだが、未完に終わるばかりか殺害動機さえ明かにならない。一、二度観ただけでは首を捻るばかりである。

(作品『殺されたミンジュ』)
 巷の評判が思わしくないのは、絵画的な映像表現がなく無言劇でもなく、役者が感情表現を負っているためではないか。つまり「これがキム・ギドクの作品か?」というほど芸術主義的ではなく、難解さだけがいつもどおりなのである。
 従来の作品が持っていた「意味はわからないが感動のようなものが残る」作用が働かないのである。
 原因はキム・ギドクが「国家と人民」という社会性の高いテーマを、クライムストーリーに落とし込むというのを芸術的野心にしたためだろう。
 群像が皆、善悪相反する意味を持たされているため、正義は勝利せず、悪が勝利したことにもならない。

 私が見たところ、主人公のマ・ドンソクは<復讐する神、抗議する人間>が投影され<仏>の暗喩になり、もうひとりの主人公キム・ヨンミンは<沈黙する神、卑怯な人間>が投影され<民衆>の暗喩になっている。このふたりの敵対関係が原題『1対1』の意味だが、両者ともにキム・ギドクのペルソナなのである。そこに物語上の悪魔<贖罪する神と大統領>まで登場し、話が進むにつれふたりの意味が不確かになっていくのである。
 最後にキム・ヨンミンがマ・ドンソクを殺害するのだが、このふたりの意味を解けと、副題の『私は誰なのか』が要求するという不思議な作品なのである。

 映画を楽しむためのポイントは、以上でまとめられたかと思う。
 作品の面白みと論拠は以下に示したつもりなので、映画ご鑑賞のうえお読みいただければ幸いである。

(ミンジュ)
 邦題は『殺されたミンジュ』だが、殺された少女の名前はミンジュではない。エンドロールには「拉致女子高生」とだけクレジットされている。
 反対に「ハン・ミンジュ」と呼ばれる死んだ女性の名前が、一度だけ出される。ふたりは同一人物ではないが、暗号だとは言えるだろう。

(キム・ヨンミンとマ・ドンソク)
 理解しがたいと思うが、キム・ヨンミンが演じているのはキム・ヨンミンという役で、マ・ドンソクが演じているのはマ・ドンソクという役と考えられる。主役のふたりは他の登場人物とは同一平面上になく、メタフィクショナルな存在である。

(正体不明の男)
 その下部構造のキム・ヨンミンが、どのような役を何人演じていたのか確認しておきたい。
 中心は暗殺命令を受けたオ・ヒョンというサラリーマンで、それ以外はテロ集団の構成員6人を圧迫する6人。つまり、彼の役どころは悪党7人となる(僧侶はオ・ヒョンであるため除外)。また暗殺組織、テロ集団とも同数の7人で構成されている。
 この7に込められた謎が「七つの大罪」だろう。

(七つの大罪)
 キム・ヨンミンがテロの構成員を苦しめる場面で、特徴的に現れる。
 ①レストランの店員を見下し<傲慢>な態度をとる金持ちヨンミン
 ②疲れて帰宅した女性を<嫉妬>で殴りつけるチンピラ男ヨンミン
 ③そのチンピラ男から離れられない<淫蕩>な女
 ➃無職を苦にする大卒の弟に<憤怒>する商売人の兄ヨンミン
 ⑤工場主ヨンミンの金で山ほど刺身を食べる<貪食>な整備工の女友達
 ⑥金を騙し取った相手の無心に耳を貸さない<強欲>なヨンミン
 ⑦借金取りヨンミンに殴られる働かない<怠惰>な男

(復讐する神)
 写真に殺された少女と一緒に映っているからといって、マ・ドンソクが彼女の父親とは限らない。思い込みを利用したキム・ギドクのトリックである。邦題に則して言えば彼は民衆(ミンジュ)の父、新約聖書(ローマ人への手紙第12章第19節)に書かれた復讐する神なのである。写真を取り出す彼に怒りはあっても、悲しみがない理由はそこにある。下部構造のマ・ドンソクを当初から神として観れば、映画はわかりやすくなる。

(悪魔)
 その現人神が、最後の敵と対決するクライマックス。
 となれば、相手は悪魔の暗喩のはず。しかるに、その前に処罰された将軍の上位にあると男なれば、国家元首である。ということは「従わねば上に殺される」という上とは、選挙民である民衆になる。7役を演じ民衆を象徴するキム・ヨンミンに殺され、韓国歴代大統領のような最期を遂げている。

(贖罪する神)
「殺せとは言ってない」という主張を言い逃れと考えては、映画の本質を見誤る。飲み屋で実行犯のトップだったサラリーマンが「指示がなくても忖度するのが完璧な仕事」と同僚に話している。現実でも組織とはこういうものであり、そうでなければボンクラだ。
 つまり、組織が孕むそもそもの問題であり、彼は無罪なのである。にもかかわらずヨンミンの手で十字架に掛けられ処刑されているのだから、悪魔ではない。贖罪する神が投影されているのであり、この場合の「上」とは父なる神になる。

(キム・ギドク)
 悪の首謀者を追ったドンソクがたどり着いた先には、民衆がいた。
 そこで、彼は神の座から降り、キム・ギドクのペルソナへ移行し、なぜ神は力を持ちえないのか、なぜ世界の悪は尽きないのかと贖罪する神に問いかけている。
 普通なら神学問答になるところだが「(人間の存在が悪に支えられていることに)なぜ今ごろ気づいたんだろう。人間は本当に哀れだ」と苦悩するキム・ギドクがいる。「神にでもなったつもりか。哀れなのはお前だ」と造反者の罵倒が、自身の不遜な言葉に対する怯えを示している。
 こうして存在意味を見失い敗北したドンソクは元いた場所、墓の中に帰る。

(神殺し)
 こうして物陰で一部始終を見ていたヨンミンが、善悪のわからない神を不要だと処刑し、僧侶となって善悪の彼岸へ向かわねばならなくなる。

(僧侶)
 その行脚の途にある僧侶が、喉の渇きを覚え、墓の前に供えられた水を飲んで合掌したというのが、あの奇妙な出来事なのである。
 娘を理不尽に殺された父親が、事件直後に自殺(誰が耐えられる?)していたこと、テロの首領はこの男の姿に身を宿した神だと示した場面となる。
 墓の中からドンソクに呼びとめられたときの、ヨンミンの驚く顔は「自分が殺めた少女の父親が、海兵隊時代の上官マ海兵だったことを知った」と言っているようにもみえる。

 注目すべきは、ドンソクがキム・ギドクのペルソナだと示す「暴力を振るったことを謝りたい」という台詞だ。善悪を作品にした以上、海兵隊時代の告解は何としても必要だった。自己批判でないとしたら意味がない。

(仏陀殺し)
 ということで映画は、ドンソクが墓がある山の中腹から下界を見おろし慟哭するところを、武装したヨンミンに殺され終幕となる。
 祠のうえで足を組んだドンソクの姿恰好は、大仏の暗喩であり、仏教もまた否定されたのである。つまり、終局は神も仏もなく人間だけが残された、灰色に広がった終末世界をみせている。

 これらふたつの墓のシーンが全体の上部構造にあり、マ・ドンソクとキム・ヨンミンが、メタフィクショナルな存在(キム・ギドクと言ってもよい)になっている。

(沈黙する神)
 さて、キム・ヨンミンは『受取人不明』(2002年)で気弱な少年を演じ、キム・ギドクのペルソナとして、世界を為す術なく見つめる神の暗喩でもあったが、実は本作においても同様なのである。
 写真を撮り録音し、彼だけが善悪の全てを見て涙したのである。つまり物語は、沈黙する神が復讐する神を殺して終わったということができる。

(民主主義)
 テロ集団の女性が嫉妬深い男に「友達だけど死んだ」と口にした携帯電話の名前が、先に書いたハン・ミンジュである。「韓」の「民衆」は死んだとキム・ギドクは言った。
 死んだ韓国とはどのような世界なのか?暗殺組織とテロ集団に描き込まれたわけだが、善悪の濃淡というより、次のような図式がみえるだろう。
 
 組織✕集団=服従✕反抗=強者✕弱者
 
 階層社会が浮かんでいる。
 ドンソクが批判していた信念(倫理観)を失った、あるいは間違った信念(倫理観)を持った民衆が闘争する格差社会だ。
 無垢な少女が正体不明な男(民衆)に殺されるプロローグは、民衆自身の姿を描いているはずだ。

 組織は隷属を要求し、服従は自己放棄を伴うが、反抗は孤立を招き敗残者となる。いずれにせよ人間はみじめでいる他ないと言っている。テロ集団の制服着用は、孤立した者たちの組織へあこがれを象徴している。

(罪なき者)
 では、民衆はあまねく批判されているだろうか。
 暗殺組織、テロ集団ともに年齢層は広いが、未成年と老人はいない。
 男に道理を諭し、溢れる優しさに際立った女性たちがいる。
 この点に注目すると、物語はテロ集団の首領ドンソクの暴力を目の当たりにして、誰が造反するのか、順番もわかるのだが、社会を動かす力が与えられていない者には責任がないと、除外されているのである。

(結論)
 先に確認したようにヨンミンとドンソクは、どちらもキム・ギドクのペルソナであった。終局の殺害は芸術性を最優先し、デタッチメントにあった作家キム・ギドクが、自分も責任から免れるものではないと、暗喩的に自殺したとも読める。
 本作は「世界を善きものにするのは信仰ではない。社会を動かす人間ひとりひとりの責任と倫理だ」と、彼がはじめて作った主張する作品なのである。
 どうだろうか、やはりキム・ギドクは天才ではないだろうか。


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