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メビウス~息子解脱する

キム・ギドク 監督、脚本、撮影、編集、製作
2013年9月5日 韓国公開
2013年9月7日 第70回ヴェネチア国際映画祭招待作
2014年12月6日 日本公開
原題訳 メビウス
英題 MOEBIUS
宣伝文句「人間の業が廻る」

 キム・ギドク:このモチーフを映画化しようと思ったのは、韓国社会が性的なことをシリアスに捉えすぎだと感じていたことからです。もっと突き抜けた、それを超えたものを、赤裸々に、率直に描いてみたいと思ったのがきっかけです。

 しかし、この作品も表面に見える物語に翻弄され、実に多くの誤解が生まれているようだ。結論から言えば、男児を過保護に育てた家庭が崩壊する様が描かれている。そこには息子がエディプス・コンプレックスを克服しようとする姿と、男女の性が記号的に描写されている。
 話が分かりにくいのは、父親が母親役を演じ、母親が父親役を演じる意図的な混乱があるためだ。いつも通りのトリッキーな演出ではあるが、裏に隠された「凡夫は煩悩から解放されない」という主題が、より分かりにくくしている。

(父親としての母)
 母親による息子の男性器切断は去勢を意味しており、近親相姦の禁忌を描いたのであり、この女性は自分に取って代わろうとするエディプス・コンプレックスを持つ男子に対する父親役を演じている。彼女が酒飲みで家をぷいと出ていってしまうのは、抑圧的、強権的な父親像が仮託されているからである。つまりプロローグでの彼女は父親を演じているのである。

(女性としての母)
 切断したものを食べてしまうのは、女子の去勢コンプレックスを描いたと思われる。失った男性器を仮想的に取り戻そうとしていると考えれば、彼女の男性的振る舞いが理解できる。その意味で彼女は逆説的に女性の記号にもなっている。

 いずれにしても、重要なのは母親の性別が曖昧ということだ。

(母親としての父)
 妻が出奔してプロローグが終わると、父親は愛人と別れている。物語上は罪悪感によるものだが、ここから彼は息子を甘やかしスポイルする母親を演じることになるからである。前髪を降ろし、意気地なく喧嘩が弱いのは、隷属的な母親像が仮託されたということになる。

(男性としての父)
父親が自分のものを切断し息子に与えたのは、過保護を象徴的に描いたものであるが、性同一性障害の男性を記号化したと考えれば、彼の女性的な振る舞いは逆説的に妥当なのである。

 いずれにしても、重要なのは父親の性別が曖昧ということだ。

(哀れな息子)
 息子は性別が曖昧な両親に育てられた、言い方を変えれば男らしい父親と女らしい母親がいない少年なのである。そのような家庭環境が彼を去勢したと男性器の切断が表明している。つまり彼にはスポイルされた、いじめられっ子の高校生という属性が与えられている。

(プロローグ)
 両親による男同士のようなつかみあいの喧嘩が演じられ(このときはまだ父親は男性であり、母親は倒錯した父親である)切断騒動が起き、この家庭が崩壊寸前にあることが示されている。

(物語)
 物語は強権的な父親(の象徴)が家を出て行って始まり、残された母親(の象徴)に寄り添われたが一人息子が、何とか自立しようともがく姿が描かれている。
 父親の愛人を奪うというのが主軸モチーフで、愛人が母親似(イ・ウヌの二役)なのだから、少年のエディプス・コンプレックスの克服が物語の骨子になる。が、幼児の不能の性(男性器切断)から出発した彼は、父の贈与(移植手術)を受け、男として自立できたのだろうか?
 答えは放蕩から帰還した父親(の象徴)と息子を庇護下においた母親(の象徴)の争いのあとにある。

(エンディング その1)
 移植手術を受けはしたが不能だった彼が、母親には反応し、その勢いで父親の愛人を征服し泣かして帰る場面に、父母の呪縛から解放され大人になった少年という物語の完結がみられる。おそらくこれがマルチエンディングのその1だろう。

(エンディング その2)
 もうひとつは、そのあと自宅に帰った場面に引き継がれる。
 ここからはプロローグ同様、父親役と母親役が頻繁に入れ替わり揉めはじめ、家庭崩壊が真際にあるとの印象が強まる。
 少年の指で空回りしている玩具のロボットが、親に支配されどこにも行けないという心理描写になっており、更に母子相姦の悪夢を見ている。つまり先の場面で父親の愛人が泣いたのは、彼の不能を悲しんでいたことになる。父母の呪縛が強く、大人になれなかった物語が続いているのである。
 少年が、ぼんやりと愛人の店に様子を見に来るシーンがあるが、昼間という時間帯は奇妙であり、マルチエンディングでなければ、エンディングその1での彼の自信たっぷりな様子とも繋がってこない。
 父親(だろう)が、母親(だろう)を射殺するという無理心中は、家庭瓦解の暗喩であり、原因が自分にあることに絶望した息子も、己の生誕した根源を打ち抜いてしまう。乳離れできていない息子が両親の離婚に絶望する構図が見て取れるだろう。
 しかし、私にはキム・ギドクが全く別の答えを用意したようにみえる。

(エピローグ)
 男性器の強調はこの映画は男性の物語ですよと言っているが、それだけではない。
 プロローグで母親が見た「仏具店の前で祈る謎の男」が、実はこの少年だったと明かされている。彼が礼拝する跪き立ち上がる動きとニット帽に着目すると、男性器の暗喩になっていることがわかる。
 それが仏像に祈っているのだ。もとより切断に使われたナイフが仏像の頭から取り出されていたのも、煩悩を断ち切れという含みがあったのである。
つまり彼が自らの意志で股間を打ち抜いたのは、色欲からの解放を意味し、家庭の崩壊を目の当たりにした少年は、両親を捨て煩悩に打ち勝つべく、僧侶になる決心をしたのである。このように自立したというのが最後に用意された答えだ。

 というところで、終幕でこの少年が不敵な笑みを浮かべ観客を見返すのだから「そんなに簡単に性欲が捨てられます?」とキム・ギドクは問いかけている。男の私としては、椅子のうえに立ったイ・ウヌさんの後ろ姿を見せられては「無理っす」と答えるほかないのである。
 彼女をキャスティングした選球眼のよさとナイフの暗喩等々、男女の性欲を描いた作品でもあるが、主題はあくまで父子関係。母親の慈愛がなく、その分父親に甘やかされた男子が真っ当に育つのは難しいと言っている。そういう映画なのである。

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