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嘆きのピエタ~神になろうとした悪魔の子

キム・ギドク 監督、脚本、編集
2012年8月29日 第69回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞
2012年9月6日 韓国公開
2013年6月13日 日本公開
原題訳 ピエタ
英題 PIETA
宣伝文「前代未聞の”愛”の結末に世界が言葉を失った、衝撃のラスト。激しく胸を揺さぶられる、魂のサスペンス・ドラマ」

 映画はある男の死ではじまり、ある男の死で終わる。
(物語)
 工場の町、清渓川。再開発事業の決定で立ち退きを余儀なくされた中小零細の工場主は、借金を当てに暮らしていた。
 孤児として育ったガンドは、そこで僅かな額の滞納も許さず肉体を損傷させ保険金で回収する、悪魔と呼ばれる借金取りになっていた。
 ある日のこと、母親と名乗る女ミソンがガンドの前に現れる。内心ではいつかそんな日がと望んでいたガンドの疑念はやがて愛情に変わり、雇われていた消費者金融も辞めてしまう。
 ところがミソンの目的は、ガンドに不具にされ自殺した、本当の息子サングの復讐にあった。愛する者を失う苦痛、自分と同じ苦しみをガンドに与えるため、人間らしい心を取り戻したところで、姿を消そうというのだった。ところが彼女は一緒に暮らすうち、憎むべき相手に愛と哀れみを覚えてしまう。葛藤に引き裂かれるミソンだったが、最期の幕を廃ビルから身を投げて降ろす。ミソンの罰だという真相を知ったガンドは彼女の思惑通り生きる希望を失い、後を追うようにして自殺してしまう。

(主題)
 息子と母親の関係を主題とし、母性とはどういうことかを問うた作品。実母でないのに慈しむミソン、騙されたと知りながら後を追うガンドはすべからく愛には悪も善に変える力があると訴えている。

(深層の世界)
 サングは、ミソンがお腹を痛めた実の子。神の子イエスを暗喩し、プロローグで贖罪している。役者はガンドとの一人二役。

 ガンドも、ミソンがお腹を痛めた実の子。父親はわからないが、サングの3歳年上の兄で、母の愛によりエピローグで贖罪する。

 ミソンは『嘆きのピエタ』を演じ、棺に見立てた冷蔵庫のまえで泣く聖母マリアを暗喩し、3歳のガンドを捨てたと言っている。

 少女マリアは悪魔に魅入られ身ごもり、男の子を出産した。それから3年の年月が過ぎ、今度は神の子を宿す。神の寵愛とはいえ、自分が選ばれた理由を承知していたマリアは怖れ、処女懐胎という神話に組み込まれ先の子を捨て、聖母として生きることを余儀なくされる。
 ところが、成人した神の子は十字架にかけられ命を捨ててしまう。贖罪のためとはいえ、マリアにとっては我が子を失う悲劇でしかなかった。それがどこかで生きているはずの長男への愛を、強く胸に甦らせることになる。
 そして神はこの男が地上で悪をなしていることも、彼女の気持ちも全て承知したうえで、恐るべきことに今度は彼女に男を救うための贖罪を求めたのであった。
 ミソンはガンドを罰するために現れたのではなく、神の命により自分の命と引き換えに、愛とは何かを教えに来た。この作品にはこのような物語が潜んでおり、悪魔の子とその母はこれでようやく神に許され、天国に召されたのである。

 ミソンが自死を決意し、背後に潜む復讐者があるかのように廃ビルに立ったとき、ガンドが「母さんは悪くない。自分を代わりに殺してくれ」と声をあげたのは、実は母親の遥か上空に在る神への訴えなのである。「全ての母親には罪がない」と映画の主題を叫んだ言葉にもなっている。
 このとき「息子の復讐に燃える母親が本当に現れ、ミソンを突き落とそうとして未遂に終わる」不必要とも思われる奇妙なシーンが挿入されているのは、神がこの声を聞き届けたこと、ミソンの目的が復讐にないことを暗示しているのである。

 奇妙といえば最も奇妙なのは、この直前に置かれたサングの工場の場面。私にも明言はできないが、ガンドが真相に気づいたことが描かれているのではないか。ここにミソンが登場し呪いの言葉を吐くのは、ガンドが内面の声を聞いていると解釈するのが最も合理的だからだ。
 二重写しになっているのが、サングの霊である。柩のある場所戻ってきたのは、キリストの復活を暗示しているのではないか。
 車椅子に座っていたのは、己の死を予見するガンドでもあるが、死を追認し天に昇ろうというサングでもある。

 ガンドが贖罪の途に就いたのは、弟サングと同じ道を選ぶことで、母の愛に報い、弟と同じように愛される資格を得ようとしたのである。哀れにも、弟のように全人類のためでなく、世界中の母親のために。せめてあの母親のなかった夫婦のために。
 最期に出現した、河と道路で描かれた十字架を神の祝福と解釈するなら、ガンドの父親が悪魔だったと読んでよいだろう。

 そうではなく、ガンドもまた神の子だったと解釈する。
 町工場の人々の敵は資本主義。清渓川は金に苦しむ世界の暗喩になっている。金融業者が易々とミソンに殺されてしまうのは、彼もまた社会の歯車のひとつだからだ。工場主たちを本当に苦しめているのは、映画で描かれなかった再開発事業である。我々が生きる場所は、姿のない邪悪なものに支配された不気味な世界だと読める。
 その世界に産み落とされたガンドが、金とは何かと登場人物のなかで最も知りたがっているだろう。彼自身は元より金に執着がなく、工場主に恵むこともあったではないか。
 となるとキム・ギドクは「神の子でも母親に捨てられれば、現代社会においては悪魔のような男になる」と描いたことになる。
 これが正しければ「ガンドの贖罪は有効だったのだろうか」と彼は問いかけている。それこそが十字架が消えた終幕から、エンドロールが始まるまでの長い暗闇の意味だろう。


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