役割の裏側にあるもの

フェミニズムの具体的な主張はより詳しい資料があるのでここでは割愛するけど、本質的には役割を時間割で規定している度合いが大きいのだろう。時間割というのは「一元的、単一的な方向に基づいて構成された行動の行程の組み合わせ」であり、順番というものも「一元的単一的な重力を発生させる串で刺された組み合わせ」である。


それならばデータベースのある場所に行けば時間が短く出来ると思うけど集合的かつ集約的に集束されたものを均質的に加工する場所ではそういった乱れは許容されない。

モラトリアムが出来るならバイヤーの要望に沿った時間になるように切れ目なく作り、継続的な支払いを行い信用度の向上に努め属性という個人に付随するもののために努力をするということだ。

しかしこれが経済活動に転じたら稼働量が少ないことを問題視されている。稼働は生理的欲求や安全欲求に近ければ近いほど多くなる。毎日営業しているコンビニのように何でも十把一絡げに稼働日数を24時間365日に設定して時給労働者のためだとのたまう。

根本的に国内総生産や国内総生産などのPしか見られていないのだ。Pが「Pro-Duct」のPなら「Pro」があらかじめという意味で「Duct」が「口」という意味で「あらかじめ取り出してあるもの」が税金の源泉になっている要素が大きいからなのかもしれない。

Pに付随するなら「C」も入ってくるだろう。だが「カメラ」と「写真」は「切り取ったり切り取られたりした瞬間を示すもの」であり、そうしたらお見合いの写真で「キメている方」と「ボケている方」を両方並べて判断してもらったり、ナイトクラブの写真でも同じように「整っている方」と「乱れている方」を両方並べて判断してもらうのも提案になると思う。「乱れた姿は一人のもの」というのは封建主義的な価値観ではないのかなとは思うからだ。

表向きには「コロナで遊んでいるやつが多くなった」と言っているのだろうけど。今のところは毎日の稼働を求められている公務員や間隙なく作業を行うことを要求されるライン工に合わせてあるのかなとは筆者は考えている。こう書いてきて昔の「女工哀史」という小説を思い出した。一応、課税の考え方の一つに「控除などを引いた後で一人200万円」というのがあって家族は4人で800万円から課税が多くなるのが日本には多い。それが消費税を上げる根拠になっていたりする。

1990年代の日本の経済が恨めしく思われているけど
1990年代の日本の経済の隆盛はバランスがとれていたから
舶来品も多かったし人数に対する依存も低かったし
天気が変わっても変わらないで続けられることが多かった。

時代が変わってスマートフォンが発売された2007年の時もスマートフォンがパソコンの部品から作られたと考えて、ソフトウェア開発を携帯端末でやろうとした。結局はセキュリティがあるから会社ではやらなくなったけど。スマートフォンの前にはブラックベリーがあったから2007年以前からその発想はあったと思う。

「じゃあ、凋落したとしたら何が原因だと思いますか?」と聞かれたら自動車で言う「ランエボ」のように「ポリシーで動く優等生」を「支配律(ルール)に従わないから」と排除をしたことをまず考えた。

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