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「いつかどこかで出会えるかもしれない誰か」のために

僕はそれほど書きたいから書いているわけでもなく、届けたいから書いているわけでもなく、自分を知ってもらいたいから書いているわけでもない、どうにも稀有な人種らしいです。もちろんちゃんと書くときの方が人生の割合ずいぶん多いのです。僕らが「言語」を介して何かを伝えたり、理解したりしている限りは、必然的に「書く」「言葉にする」「文字にする」ことに価値が生まれます。とあるコンサルタントの人が「僕らの仕事はつまるところ、言葉にしてあげることだ」と聞いたとき、「たかだか言葉にしてあげる、ではないんだなあ」と驚いたことを思い出しました。


緊張の反対にある弛緩。たいていが「これはきっと誰にも読まれていないとおもうのですが……」という主語で語られている、独自ドメインでとられたブログ。「誰にも読まれていない前提を持ちつつも、お名前.comに課金し、毎月サーバー代を払い続けている」。その相矛盾した感情を持ちつつも「書く」という意志に至る。その背景には「なぜ書くのか」「どこで書くべきか」「役に立つ文章とはなにか」への配慮が実はあったりする。「個人ブログは狂気の沙汰だ」とラジオで誰かが言っていたなあ。──そう思ったときに読んでいたのは、武田俊さんのサイトでした。

そうやってぐるぐるまわり道をして考えがここまでたどり着いたとき、頭の中に去来したのは「書きたいよなあ」という素朴な気持ちでした。それに気がついた時、ふいに鼻の奥がしびれ目頭が熱くなりました。いつかどこかで出会えるかもしれない誰か、を想像するという自分にとって最も大切なことから、もうずいぶん離れてしまっているような、そんな気分がしたのです。そして直後に、もうひとつ大切なことを思い出しました。いつかどこかで出会えるかもしれない誰か、というのは、本を読むことに魅了されはじめた頃の、幼いころのぼく自身でもあったのです。

▼出典:「住所」としての自分のサイトをつくりました | Shun Takeda Editorial Office


「いつかどこかで出会えるかもしれない誰か」。それはこれから出会う人でも、となりにいる人でもなく、「自分」。──そう気づいたと、武田俊さんは言います。


「住所」としてのサイト、っていうのもなんだかいいなあ。そんなわけで、「どこでもない誰か」に向けられた、ひだまりの猫みたいな気分のサイトを、週に一回くらい、ふらりと見てしまうクセが、いまだにあとをたちません。

(最後まで読んでいただけただけで十分です…!ありがとうございます!)