佐伯祐三 展に思うこと

東京ステーションギャラリーと、大阪中之島美術館での佐伯祐三展が終わったので、少しだけ、思うことを書き留めておきたい。

私は正面切った佐伯祐三論を書いたことはないが、『1920年代 パリの日本人画家』(1994 岡山県立美術館)、『中山巍と1920年代のパリ 佐伯祐三、マチス、ヴラマンクなど』(2001 共同巡回展実行委員会 ※財団法人地域創造による「市町村立美術館活性化事業 第2回共同巡回展) の図録や、『往還の軌跡ー日仏芸術交流の一五〇年』(2,013 三元社)に掲載していただいた論考などで、佐伯に関わるいくつかのことを書き留めてきた。
それは、ヴラマンクと佐伯の関係、それも含めた里見勝蔵による言説の在り方、それから中山巍と佐伯祐三との関係から可能性を感じた佐伯作品のイメージソースなどだが、まあ、上記2つの図録はなかなか見つけづらいうえ、そこに細かい文字でいっぱい書き留めた文章となると、それが気づかれないのはいたしかたないだろう。


それはさておき、「吉薗周蔵」を巡る「佐伯祐三贋作事件」(どちらのワードも Wikipedia で出てくるのには驚いた!)によって想定された/されるべき視点が、今回の展覧会では、あまり取り入れられていないと私には感じられたことだ。

その贋作事件で、贋作だ真作だと議論された、いわゆる吉薗佐伯のことは、別によい。
ただその議論の中で出てきた可能性として、祐三が1928年にパリで亡くなり、その際、手元にあった作品は米子が引き上げてきたこと、そして、佐伯祐三生前に、その作品をまとめた印刷物がないため、初めての画集である『一九三〇年協会叢書1 佐伯祐三画集』(1929 東京詩学協会)掲載作すら、佐伯真筆ではないという可能性が出来てしまうことである。

つまり、亡くなった翌年に刊行された画集に図版掲載されている作品ですらも、米子が加筆したものである、そもそも米子の作品である、という可能性が生まれてしまう訳である。実際、それが主張されたわけだし。


それだけ作品の真贋には、来歴やら、佐伯生前に図版掲載があったかなど細やかなチェックがいるだろうし、おそらく、今展覧会のご担当者達も、細心の注意を払ったうえで、作品を選択したと思う。

ただ、出品作の中には、中之島美術館におさまっている山本發次郎コレクションや、和歌山県立近代美術館の玉井一郎コレクションのように早くから収集されたものとは違い、1990年代になって世に出てきた作品も入っていたりする。
それに前記のロジックからすれば、山發コレクションも玉井コレクションすらも佐伯祐三100%真筆ではない可能性も想定されるわけだ。

それだけ慎重な判断が必要なわけだが、その慎重さが、展示場の解説でも、図録の記載でも、いまひとつ私には伝わってこなかったのだ。

だからと言って、あれとあれは贋作だ!とか言いたいわけではない。

ただ、作品解説を読んでいると、作品に描かれたモチーフから、佐伯の行動が特定されたり、完全に真作と断定するような前提での様式変遷が語られたりしている気がするのだが、それは私のわからない/図録には記載されていないところで、しっかり裏がとれているのだろう。
でも、やはり、もう25年は過ぎたとはいえ、あれだけの贋作騒ぎを経た後なのであるから、やはりそこで開かれてしまった上記のような可能性については、それを閉じるような証左に、もう少し触れて欲しかった。

出来る事なら、山發コレクションも玉井コレクションも含めて、数多くの佐伯祐三作品に対して、光学調査を実施して、その成分組成についてのデーターが可視化される日が来ることを願っている。

そうすれば、吉薗騒動で開かれた可能性のいくつかも閉じられるであろうし、今後の佐伯祐三研究を違うステージに連れて行ってくれると思う。

それと合わせて、文献資料との照合も含めて、佐伯研究の拠点となる施設が出来上がらないものだろうか。

と言う他人任せのないものねだりをしていても仕方がないので、せめて自分の出来ることは進めておこうと思う。



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