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西粟倉村史を読み解く ①西粟倉の道

こんにちは、株式会社百森の清水です。

西粟倉に来て3年目ですが、村外の方と話すたびに西粟倉村のことをよく知らず話せないことも多いなあと思うことが増えました。
一方で、村内の友人と活動している「ちぐさ研究室」で、森のことを調べようと村史を調べていたことがあり、そこにある生活や産業、歴史など多岐にわたる細やかな情報に驚いたことがありました。いつか読んでみたいと思ったまま時間が経ってしまいましたが、このアドベントカレンダーをいいきっかけとして西粟倉村史を読んで面白かったところを特集してみたいと思います。

なお、西粟倉村史はあわくら図書館で貸し出しもされています!また役場で販売もしているようです。ぱらぱらめくるだけでもおもしろいので興味がある方はぜひ見てみてください。

今回は西粟倉の往来について。

大名の道 因幡街道

鳥取県と兵庫県の県境に位置する西粟倉村は、播磨国姫路と因幡国鳥取を結ぶ「因幡街道」のさなかにありました。下の図は鳥取・姫路と西粟倉の位置関係。めちゃくちゃざっくりしたもので、実際の街道の経路を表すものではありません。

途中には11カ所の宿場があり、西粟倉には「坂根宿」という姫路側から7番目、鳥取側から5番目の宿がありました。最寄りの駒帰宿までは鳥取県側へ峠を越えて約4kmです。
この地図は現在の西粟倉の大字(市町村内の区画名称の一種)で西粟倉を区切ったものです。

坂根村を含む6村が現在の西粟倉村となっている

坂根宿は名前のとおり今の坂根地区にあった宿場で、旅館や問屋場が置かれていました。山陰山陽の分水嶺でもある志戸坂峠のふもとに位置して、鳥取側から超えてきた人にとっては厳しい峠を経てようやく見えた人里を感じられる場所として、これから超える姫路側の人にとっては峠越え前の最後の安息処として機能していたことでしょう。

なお問屋場では、大名や幕府の人がその宿場を利用するときに必要な馬や人足を用意して荷物を次の宿場まで運ぶことと、幕府公用の書状や品物を次の宿場に届けること、大きく2つの業務をしていました。 その料金は、幕府の定めた御定賃銭でした。鳥取藩大名の通行があると馬や人を近村から出すため毎年支給金はありましたが、それ以外は坂根村や各村の持ち出しであったため財政を圧迫していました。幕府もこの援助のためにときどき補助金を出してました。

この街道がいつ開かれたかは明らかな記録はありませんが、奈良時代に因幡国司でもあった歌人の大伴家持が播磨から都に上がったという記録があることからそのころからこの道はあったと考えられます。大伴家持は小倉百人一首で6首目にあたる

かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける

を詠んだ歌人です。

その後しばらく記録は途絶えますが、江戸時代の1613年、鳥取藩主の池田長幸の正室である松姫がこの街道を通ったという記録があることから、そのころには姫の行列が往来できる街道となっていました。
志戸坂は33曲がりで坂も急だったため積雪の時期には人の往来も途絶える難所でしたが、因幡への近道で参勤交代の道でもあったため、人の往来は多く宿駅や問屋は栄えていたそうです。

1887年(明治22年)、北条県令によって堀割が大々的に行われて、これにより人力者や馬車の通行が可能になりました。文明開化を受けた、当時の行政の最先端ともいえる大事業でした。
当時は掘割付近に1軒の茶屋ができて、行きかう旅人がお国訛りで世間話を交わしていたそうです。また山陽側の道は急斜面で、車の後押しや荷物運びに坂根村の人が頼まれることも多くありました。賃銭は頂上までで1回7~8銭となり、トンネルが開通するまでは坂根村の子どもたちがこのお手伝いをひそかに喜んでいたという証言が残っています。

その後1934年(昭和9年)、岡山鳥取両県の大運動によってトンネルが開通しました。これによって村の生活圏は著しく拡大し、山陰山陽の重要路線に格上げされました。
村を縦に走る主要県道が国道に昇格したのを機に、1981年(昭和56年)、従来のトンネルより下側に2車線の新志戸坂トンネルが開通して現在の形になりました。山陰山陽をつなぐ機能は著しく高まりました。

現在の新志戸坂トンネル


庶民の道

因幡街道以外にも、周辺の国に通じる道「若桜往来」と「千種道」がありました。因幡街道が大名の道であったとするならば、若桜街道と千種道は庶民が作った道と言えます。

若桜往来は、若杉を超え、吉川を通り鳥取県八頭郡の若桜の陣屋町に通じる山道であり、出稼ぎや山働きの人たちが往来した重要な道でした。県境には道しるべ地蔵があり、若杉天然林を1週したことがある人であれば見た人も多いでしょう。今は全く利用されておらず、木々が茂る中に獣道のようにその跡が残っています。

一方千種道は、永昌山から兵庫県宍粟郡千種村に通じた山道で、主にタタラ場の栄えた明治初期までは数多くの労働者がこの道を通って村に移住してきたと考えられます。この鉄山の話も面白いのですが詳しくはまた今度。現在は林道が開設されて兵庫県宍粟市千種町への最短距離となっています。

西粟倉の人々の生活圏はこの道を通じて因幡や播磨と結ばれていたため、江戸時代の頃から婚姻関係なども多かったそうです。


問屋トラブル

少し余談ですが、坂根村に置かれていた問屋で、大茅村(現西粟倉村大茅)との通行トラブルがあった記録があります。

1805年の冬、大茅村の百姓がタルや材木を牛の背に積み坂根村にさしかかったところ、坂根村の百姓たちが大人数集まって道をふさぎ通行を邪魔したため、大茅村の百姓は村に引き返すことになりました。このトラブルは百姓の意地悪によるものではなく、坂根村の当時の庄屋(今の村長に当たる)は大茅村の百姓が荷物を付けたまま坂根村を越しては運送業も行っていた問屋の業務妨害だと大茅村と明石藩に申し入れているもので、村と村の利害に起因する対立でした。

この申し出に対して、大茅村は「もともと辺鄙な場所にあって宿場らしい宿場でもなくこの訴えまで問屋の役割も大して機能していなかったではないか。荷を積んで近くの村や町まで売りに行くのも今までの習慣で、問屋に委託する前例はなかった。またその売り上げは大茅村の百姓にとって年貢と生活費の支柱となっているもので、それがなくなれば村の破滅につながる」と、反論の訴訟を起こしました。
 
訴訟が続く中、同じ年の夏、事件は起きました。
大茅村の百姓5人が例によって牛馬に荷物を積んで坂根村に差し掛かったとき、坂根村の3人と暴力沙汰になってしまいました。大茅村の5人はケガをし、そのうちの1人は命に関わるほどの重症だったそうです。双方がそれぞれの領主に訴えようとしましたが、先の訴訟が片付いていないのに重ねてケンカ口論の訴訟を起こすのはどうなのかという近村の役人の調停で、双方は「奉行所の判決が出るまでの暫定措置として、大茅村の積み荷は自由に坂根村を通行してよい」と和談により決着しました。その後どのような判決が出たか明らかではありませんが、大茅区の文書にその後の関係資料がないことから、大茅村の申し立てに沿った形の判決が下ったのかもしれません。

道は生活や文化の発展においてなくてはならないものですが、特に限られた道しか作ることができない山間地域では物資の生命線でもありました。これらの道は西粟倉の産業発展にも大きく寄与する道でしたが、その話も続編で書けたらと思います。

参考:西粟倉村史(前編)
使用した地図の著作権はGoogle に帰属します

見落としている部分も多いようなので、より詳細を調べたい方は図書館へどうぞ!

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