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信仰を恋と見間違うな 7月の厚田公園展望台にて

わたしの教祖は色が白くて、にこにこというよりはふにゃふにゃとかへらへらとか、そういう雰囲気で笑う。髪が黒く長くて腕が細い。煙草と白檀のにおいがする。

今から少し前の夏、人生で初めて肉眼で北斗七星を見た。息を呑んだ。走馬灯に出ると思った。そうだ、あれは平成最後の夏でした。隣で教祖が一生懸命写真を撮っていた。
夏、「満天の空」とはこのことを言うのだと思ったあの夜の星たち、砂浜で見上げた赤い月、空を反射する海が紺色から薄い水色に変わっていく朝、鴎の鳴き声、担ぎ上げられてタクシーに押し込まれた日に降っていた雨や、スーツで入った海の冷たさ、初めて触ったウニやヒトデ、足に絡まる藻の感触。

ああ。はい。7月ですね。

今年も夏が来てしまった。夏、夏です、大事なものが手のひらからさらさら零れ落ちていってばかりだった夏です。フェリーに乗って海の向こうに行ってしまった人、何度縋り付いても同じ温度の「好き」を返してくれることのなかった人、首を括って死んだ天使、どのさよならも7月だった。わたしから去っていったたくさんの愛しかったものたち。
そしてそれら全てを覆すような北斗七星。
今年も星は綺麗に見えそうですか。



教祖とは何年か前の、夏の始まりから終わりにかけてのひと月かふた月くらいだけ近くにいた。仲が良かった、でも、一緒に過ごした、でもなくて、「近くにいた」。居ただけだ、それ以上の表現が見当たらない。なにかが触れ合うこともなかった。目を見て話すことさえあまりなかった。だけどとても近くにいた。星と、海と、月と、日の出を一緒に見た。

会話の内容は9割がわたしの内面吐露だった。

日々付きまとう自己嫌悪と、それでも自分を嫌いになりきれない自己愛、わたしはいつもこんなことに傷ついていて、こんなことに苦しめられていて、どうしたって死にたくて、死ねないのでどうしようもない、そんな話を、時に泣きながら、時に怒りながら、延々と続けた。

怖い。

怖いです。いい迷惑です。自分で書いていて非常にしんどい。今からでもわたしは彼に金を払いに行くべき。

今ならわかる。大人なのでわかります。なんでも吐き出しゃいいってもんじゃないよマジで。自分のことを全て話してしまいたい、理解してほしい、許してほしい、そんなの他人に求めるべきじゃない。わかります、そんで当時も本当はうっすらわかっていた、だけど止められなかった。止まらなかった。

で、これがまあ教祖が教祖たる所以なんだけれども、彼はわたしがそういうようなことをくどくどと助手席で吐露すると毎度必ず「あなたはそのままでいいです」と言ってくれた。

そんなわけないのに。そんなわけないだろ!そんなわけがなかった、でも彼はいつだってそう言った。「あなたはいてくれるだけでいいです」と言った。わたしのぐでんぐでんに自分に酔った長文LINEに同じだけの文量で返してくれた。
いつも小説の中でも見たことがないような難しい表現を使う人で、それが更にわたしの「この人なら全て理解してくれるんじゃないか」を加速させた。

怖いよ。

生身の人間を、ただの22歳の男の子を、勝手に手近なかみさまにしてしまった。自分の苦しみを吐き出して罪を懺悔めいたことをすることそのものに陶酔していた、あれはちょっと抗いがたい快感だった。
内容なんてなんだってよかった。いや当時は本心で悩んでのたうち回っていたんだけれど、今思えばあんなの全部「本心風」で「苦しみ風」で「罪風」のなにかだ。なんでもよかった。それっぽく見えて、自分自身もそれが本心だと思い込むことができてしまえばなんだってよかった。なにかをぶつけて、泣いて、なんだかお告げのような崇高な言葉を承って存在を肯定してもらえる、そのくだりだけが必要だった。思えば後半はその流れを欲するあまりに吐き出したいこともないのに無理やり作っていた気さえする。

気持ち悪い。嫌だ、いやだあ………………。嫌な話だ。

はあ、宗教にハマる人の気持ち、わかるよな。
これだけ信じてさえいれば生きていける、と思えるなにかが欲しいのだ。それが遠くの神か近くの知人かの違いだ。



恋だと認めてしまうことから逃げているんだと思っていた。

「好きとかそういうのではなかったんだ、向こうもそうじゃなかったし」。
あの当時のことを誰かに話すとき、いつもなにかに言い訳するみたいにそう言った。
後者は間違いなく事実だった。彼には好きな女の子がいたし、最終的にはその子と付き合うことになった。わたしは彼にとってあくまでも親しい友人の1人だったと思う。

でも、わたしは。

恋だと思ってしまうのが怖いんだと思っていた。認めてしまえばいろんなものが欲しくなってしまう、手に入らないものばかり求めてしまうことになるのが怖かった。気がする。
あとなにをこじらせていたんか知らんけど恋心そのものをめちゃくちゃ馬鹿にしていた。ありとあらゆる「好き」の中で最下層にあると思っていた。わたし、ハンバーグが好きなんだけど、多分この先ずっと好きなんだけど、でも恋した相手のことはこの先ずっとは好きじゃないじゃん、だから恋の「好き」は一番短命で価値がないんだよ、所詮性欲の言い換えに過ぎないよ、みたいなことをのたまっていた。マジなにをこじらせていたんですかね?嫌なもんばっかり見すぎたんだよな。
恋の汚い部分ばかりぶつけられていた時期だったので、あんなに美しい星空を恋と呼んでしまうのは憚られた。

じゃあなんなんだろうな、と思って。
自分の中に渦巻く、授けてもらった言葉と共に心中したいような、見せてもらった景色にだけ生かされているような、この感情の名前は。
なんなんだろうな、夏が終わって、秋が来て冬が来て春が来て、また夏が来て、を数回繰り返しても消えない心の中のこれは。結局恋か。いやどうなの?

首を捻りながら、日々、思い出していた。



あの頃のどこかのある日、わたしがいつも通り自己嫌悪の海に沈んでしつこくくだを巻いていると、教祖が半ギレで「自分のなにがそんなに駄目だと思うんですか?どこが嫌いなんですか?ひとつひとつ言ってみてください、全部私が論駁します」と言った。
は?論駁できるもんならしてみろやという気持ちでひとつひとつ丁寧に自分の嫌いなところを送り付けた。
それで、たった一言、「それでもそのままのあなたが好きですけどね」と返ってきたのだった。

は。

は?なによそれ。すご。

動悸が止まらなかった。
そりゃあもう立派な論駁だった。

たった一言で、彼が言う「そのままでいい」の一言だけで自己嫌悪が消し飛んだ。そして彼はその一言が、たったそれだけの言葉がわたしのくだらない自己嫌悪を覆すと、きちんと自覚していた。
その通りだった。いつだって彼に「そのままでいいですよ」と言ってもらえれば生きていけた。そしてそのこと自体を彼がわかってくれていたことが、なんだか奇跡みたいに思えた。

その日のことを、何度も何度も、擦り切れるほど繰り返し思い出した。
そんで、3年間ブレることなくあのたったひと月ふた月の記憶に支えられ続けている自分に気がついたとき、「えっ怖い、しつこすぎる、ていうかキモい」と思うと同時にわかった。

ああそうか。これは信仰心か。



今も、今もです、一緒に入った海の冷たさに、「そのままでいいです」と何度も何度も言ってくれたことに、生かされ続けている。最後に会ってから3年が経っているのに。ていうかもう宗教と化してしまったら会うとか会わないとかはマジで関係ない。だって基本的に会えないでしょ、神。
3年間。一度も会うことの無かった人間がたったひと月ふた月の間にかけてくれた言葉に縋り続けてきた。

あの夏、死にたいと言うとよく車で迎えにきてくれた。展望台に向かう道中で街灯がなくなると教祖は時々ふざけて車のライトを消して、なにも見えなくなって「怖い!」とはしゃぐわたしの横で笑っていた。笑顔以外の表情が思い出せないくらいいつも笑っていた。ふにゃふにゃとか、へらへらとか、そんな風に。

そんな風に、7月を過ごした。
夏が終わって、会わなくなった。

最後に会ったのは貸してくれた漫画を返した時だった。借りた漫画、最終巻で、天使が七夕に首を括って死んだ。
7月、わたしから去っていったたくさんの愛しかったものたち、天使も死んだ、教祖が渡してくれた紙袋には漫画と一緒に、主人公の好物であるチョコパイが入っていた。



信仰は恋にはなり得んよ。恋が信仰になることはあっても。逆はないと思う。
あの頃、「恋愛の『好き』なんて一番価値がない」と言うわたしに彼は言った、「私は恋愛の『好き』が一番尊いと思います」。現金なことに、きちんと正しい形で好きでいてくれる人に出会ってやっと思えた、ねえ、今はわたしもそう思うよ。
だからこそ思う。こんなひとりよがりと自己愛をぐるぐる混ぜて1回飲み込んで路上で吐いた吐瀉物みたいなもんを、恋とかいうキラキラしたものに昇華してたまるか。
恋を馬鹿にしていた頃はこんなに綺麗なものを恋だなんて俗物に当てはめたくないと思っていた。恋の尊さに気がついてからはあんなに自分勝手な感情と恋とを見間違うなんて絶対にしてはいけないと思う。皮肉ですね。

神様だとか、宗教だとか信仰だとか、大それたことを言いながら、やっていることは今も昔も一方的な押しつけだ。感情のゴミ箱、ボールを投げつければ跳ね返ってくる壁、そういうものに彼をしてしまっていた。そうして懺悔ごっこに付き合わせて満足していた、勝手に神父役を押し付けられた彼の役割の部分しか見ていなかった。そして今は脳内の記憶を存分に美化し、目の前に存在しない彼の概念だけを信仰対象に祀りあげている。あの頃も今も、彼が生きて思考する普通の人間だということを無視している。
そんなことない!そんなことない、彼が彼だったからこんなにも、そう思うけれど、自分がしてきてしまったことを思うと、やっぱり自信満々にそう言うことは出来ない。

最悪。最悪です。

なにが怖いって今また会えることがあったとして同じことをしない自信がない。こええ。こんなん恋なわけないでしょ。オナニーです。
ていうかなにもかもが都合よく装飾されすぎていて全てが実際に起こったことかどうかすらもう定かじゃない。途中から捏造していませんか?

あと普通に万が一本人の目に届いた場合ドン引きされること必須で笑う。いや笑えん。3年間ひとりきりでずっと虚構を愛でてるの怖すぎませんか。まあ宗教ってそういうもんか…………。そうか?
恋ではないのに、恋ではないから消えてくれずにいて、それがひどく申し訳ない。「誰かの中に自分が残るのが怖い」と言っていたのを覚えているのにこのザマ。ごめんね。
あんなに汚い部分ばかりぶちまけ続けた毎日だったのに。どこまでも思い出だけが美しくて、困る。

はあ。それでも思うよ。
「あなたはいてくれるだけでいいです」、何度も言ってくれた言葉とおんなじことを思う、いてくれるだけで救われていた。
今も。



7月です。7月ですのでセンチメンタルになりました。許してくれ。いつまでたってもひとりよがりだ。例えばあの頃、腕を切る勇気が出ない代わりにぼこぼこ開けまくった耳の穴、彼の傷を見て「痛かった?」と聞いたら「多分軟骨にピアス開ける方が痛いと思いますよ」と笑われたその右耳の軟骨には今北斗七星が飾られていることだとか。うわ、引くわ、あーあ。

あーあ。

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今年も7月がやって来て、終わろうとしている。けれど夏は去っても追慕は切だな。
いつか信仰対象を必要としないくらい強くなれたら普通の友人として話がしたい。けれどそれもまたひとりよがりな願いです。
じゃあね。

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