見出し画像

#72-18 貴輪から輪湖

1972年9月秋場所の千秋楽。貴ノ花と輪島の水入り。

ここが大相撲の史上最大の盛り上がりピークでした。 

大鵬の1人勝ちにより、低迷していた大相撲人気が息を吹き返したのは、貴ノ花が幕内に登場したとき。

この時代を貴ノ花で思い出してみましょう。

貴ノ花満は室蘭市で、10人兄弟の末っ子。兄は「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱・初代若乃花。

誕生した時、長兄の勝治(後の若乃花)はすでに22歳で幕内力士となっており、「お前の弟だ」と聞かされて仰天した。

杉並区立東田中学校在学中に水泳(バタフライ)で有名でオリンピック選手の候補になるほど。

1965年(昭和40年)5月場所、本名のままで初土俵。

まだ日本大学の相撲部員だった輪島(二歳上)が二子山部屋に稽古に来た際、十両時代の貴ノ花が相手をし輪島に負けてしまった。

1970年(昭和45年)1月場所、本名の花田から貴ノ花と改名し再入幕

1970年(昭和45年)10月、端役専門の女優の藤田憲子(のちの紀子)と結婚

1971年(昭和46年)1月場所中の1月20日長男の勝が生まれたので意識が変わりました。

横綱・大鵬との対戦(1971年(昭和46年)5月場所に大鵬に黒星をつけてた。ここから人気が沸騰。僕は1970年4月「圭子の夢は夜ひらく」で10週一位だった藤圭子に似ていると思っていました。

大鵬はこの日の敗戦を最後に引退しました。

大関の清國、戸田(羽黒岩)、麒麟児(大麒麟)が苦手でした。

第51代横綱玉の海には1度も勝てませんでいた。目標としていましたが1971年10月に玉の海が現役横綱のまま急逝してしまったのです。

僕はこの時のことをよく覚えています。テレビのモーニングショウのゲストに出演していて、番組最後の挨拶で司会者が「本日のゲストは玉の海さんでした。横綱、今度盲腸の手術をするそうですね。元気になったら頑張ってください。それではさようなら」。しばらくしてこの訃報。ショックでした。

玉の海は在日でした。

当時関脇の力道山がプロレスに行った理由が「民族的に横綱(大関)になれないから」と書いてある事を読むたびに当時はそうだったのかなあと思っていましたが、そうではないようです。

後の第57代横綱で理事長の、三重ノ海も在日ですが、なんの問題も起きていないと思います。

力道山は日本統治下の北朝鮮に生まれているので国籍は日本ですので帰化する必要はありませんでした。

1950年9月場所前に廃業したときに百田に入籍しています。私は彼の一連の動きは1950年6月の朝鮮戦争勃発が契機になったと思います。

力道山が朝鮮生まれであることは生前知られていなくて、非嫡出子である2人の息子ですら知らされていなかった。1984年に週刊プレイボーイが報じて知ることになりました。

貴ノ花に戻ります。

北の富士は一人横綱でしたが、暴力団との関係で処分を受け、その後は不振が続いていました。

1972年(昭和47年)1月場所8日目では、横綱の北の富士戦で「かばい手」「つき手」論争を巻き起こしました。これは国中が大騒ぎ。

翌3月場所7日目の再戦は行司差し違え(22代式守伊之助)。貴ノ花の強靭な足腰から「もうひとつの生命がある」と言われました。

1972年9月場所千秋楽では、輪島との水入りの熱戦。場所後に二人が揃って大関に昇進となりました。この千秋楽は、当時の皇太子一家が観戦されており、大喜びされていました。

この時の番付表。懐かしい名前がびっしり。

画像1

ここの時期が「貴輪時代」

ところが急成長してきた北の湖に追い抜かれ、「輪湖時代」となってしまいました。

1974年(昭和49年)7月場所の貴ノ花は、優勝争いのトップの大関の北の湖と12日目に対戦し勝ちました。これも名勝負の一つとなりました。

北の湖は、この負けで輪島に逆転で優勝を奪われました。それでも場所後、21歳の若さで横綱に昇進することになります。

この7月場所で横綱北の富士は、旭國、大受に連敗して引退しています。

貴ノ花が石和に巡業に来ました。そこで衝撃的だったのはタバコを吸っていたことです。体が細く軽量が悩みの力士なのに「なんでタバコ吸ってるの?」と子ども心に怒りを感じました。兄弟そろって厳しい稽古をやっているのになんなんだ?と。2人に息子にも厳しくやっていたのに違和感がありました。やはりというか口腔底癌(舌ガン)で死去してしまいました。55歳の若さでした。

千代の富士もヘビースモーカーでしたが貴ノ花から禁煙を勧められたことで成功しました。何を偉そうにという感じですね。自分の反省なのかね。

1972年本場所
一月場所(蔵前国技館・9日~23日)北の湖が18歳7ヶ月の史上最年少で入幕
優勝 : 栃東知頼(11勝4敗,初)
 殊勲賞-輪島、敢闘賞-福の花、技能賞-栃東
十両優勝 : 増位山昇吾(12勝3敗)
三月場所(大阪府立体育館・12日~26日)
優勝 : 長谷川勝敏(12勝3敗,初)
 殊勲賞-魁傑、敢闘賞-長谷川、技能賞-魁傑
十両優勝 : 朝登俊光(12勝3敗)
五月場所(蔵前国技館・14日~28日)
優勝 : 輪島博(12勝3敗,初)
 殊勲賞-輪島、敢闘賞-魁傑、技能賞-貴ノ花
十両優勝 : 若ノ海正照(12勝3敗)
七月場所(愛知県体育館・2日~16日)
優勝 : 高見山大五郎(13勝2敗,初)外国出身力士として初めて幕内最高優勝
 殊勲賞-高見山、敢闘賞-貴ノ花、技能賞-貴ノ花
十両優勝 : 大雄辰實(10勝5敗)
九月場所(蔵前国技館・10日~24日)
優勝 : 北の富士勝昭(15戦全勝,9回目)
 殊勲賞-栃東、敢闘賞-黒姫山、技能賞-栃東
十両優勝 : 栃富士勝健(10勝5敗)
十一月場所(福岡スポーツセンター・12日~26日)
優勝 : 琴櫻傑將(14勝1敗,3回目)
 殊勲賞-高見山、敢闘賞-福の花、技能賞-増位山
十両優勝 : 若二瀬唯之(11勝4敗)
年間最優秀力士賞:貴ノ花満(58勝32敗)
年間最多勝:輪島博(63勝27敗)

画像2

「ヒョーショージョー」で有名なデヴィッド・ジョーンズさん(パンナム)高見山が優勝した7月場所千秋楽の表彰式はインガーソル駐日大使がニクソン大統領からの祝電を読み上げ、ジョーンズは高見山に「ヘイ、ジェシー」と呼びかけました。

その後

幕下の若三杉は1978年に第56代横綱若乃花幹士 (2代)

1980年11月場所3日目、大関候補とも呼ばれ、千代の富士に一方的に敗れると貴ノ花は引退を決意。

大関の清国は、1985年8月12日には前妻と長男、長女を日本航空123便墜落事故で失いました。

千代の富士が、1991年(平成3年)5月場所限りで引退を決意したのは、次男の貴花田(第65代横綱貴乃花)に、同場所初日の初対戦で敗れた事がきっかけ。

次男の光司は1995年に第65代横綱。長男の勝は1998年に第66代横綱若乃花に。

関脇・栃東の次男は2002年に大関栃東に。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?