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読書【前/後】感想文 猫と『銀河鉄道の夜』

2020年9月25日20時13分

このnoteは、読む前に今の僕が書く文章と、読んだ後に未来の僕が書くであろう二つの章によって完成する。

いま、noteを書き始めた。キナリ杯でご縁ができた岸田奈美さん。彼女の主催するキナリ読書フェスに参加するためだ。

前から開催することは知っていたけれど、今日サイトができたのを知って課題図書を眺め、『銀河鉄道の夜』をAmazonでポチったところだ。当然、今はまだ読んでいない。

フェスのサイトに記載されている注意書きによれば、感想文をフェス期間中に投稿すれば、読むタイミングや書くタイミングは問わないとのこと。当日が忙しいのでこれ幸いと事前に書く‥訳でもない。

だって、まだ本が届いていないのだから。

なぜ今書いているのか?というと、読了【前/後】に抱いたイメージの差分がいい感想文に昇華されるのではないかと考えたからだ。

このnoteは、読む前に今の僕が書く文章と、読んだ後に未来の僕が書くであろう二つの章によって完成する。

なお、ネタバレは一切自重しないためご留意を。とはいえ、あまりに有名な『銀河鉄道の夜』の内容をまったく知らないという方は、あまりいない気もするが。

①読む前

そもそも、僕は宮沢賢治の書いた『銀河鉄道の夜』の内容を知っている。いじめられている主人公のジョニーだかカンパニョーロ君(※1)だかと、そのうちの主人公じゃない方(イケメン)が銀河鉄道に乗って旅をする。なんやかんやちょっと教訓めいたものを得て、途中でイケメンがいなくなって、現実世界に戻ってきたらイケメンが溺れて死んでいた。

そんなストーリーの児童書だったはずだし、8割くらいの人はこの程度の粗筋は知っているはずだ。

そうそう、児童書と言えば。今日『銀河鉄道の夜』をAmazonで注文をしたあと、その週の仕事を終わらせたご褒美にヒレカツ定食を食べていた僕は、最近気になっていた『ツバメ号とアマゾン号』の新訳を食事の合間にKindleで買って、はじめの方だけ読んですぐ閉じた。

こちらもかなり名の通った児童書「アーサー・ランサムシリーズ」だが、友人との過去話で通じた覚えはないので本当に有名かは疑わしい。
ハリポタとダレンシャンならみんな知ってるのに。なんでよ。

この本は1冊1冊がなかなかの分厚さの12巻シリーズで、自分にとっては青春そのものだった。特に、小学生の頃海外にいた時分は、新しい本がなかなか手に入らないのもあって、週に1度のペースで12巻を繰り返し読んでいた。3年いたので計算上、少なくとも150回くらい通しで読んでいたことになるが、感覚的に大きく外していない。

その光景を目にしたメイドさんが、「マダムのお子さんは同じ本ばかりずっと読んでいるが大丈夫か」と母にチクるなど、狂人と恐れられていた節もあったが、そののち和解して仲良くなった。

このシリーズの好きなところは、100年前の物語であり、旧訳のちょっと古臭い日本語がピッタリであることが一つ。そして一番大きいのは、夢のある児童書でありながら、かなり現実的であることだ。

物語は、主人公ウォーカーきょうだいが休暇中、帆走にキャンプにたくましい想像力をぶつけてアウトドアでする「ごっこ遊び」を中心に進む。100年も前のイギリスが舞台なので、ゲームボーイとかDSもなくて、ボーイ/ガールスカウトの要素が強い。
もやい結びとか、今でもキャンプとかで使うけどここで覚えたなぁ。

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もろアウトドアかつ、懐かしいテイストの挿絵の表紙。こういう生活にあこがれていた。

4兄弟姉妹のジョン・スーザン・ティティ・ロジャはもちろん物語を進める存在で、それぞれに特徴がある。そして、冒険物語でもあるため好奇心旺盛。
ただし、異世界に転生しちゃったり異次元の運動能力をもっていたり天才的な頭脳をもっていたりするようなことは無い。

それどころか、普通の「いい子」たちなのだ。彼らは探検家を自称し、蒸気機関をさげすむポーズを取る昔気質の船乗り。父親仕込みの帆走技術を駆使しながら、未開の土地を突き進んでいく。
実際はイギリス湖沼地帯の静かな土地を、想像力でジャングルに見立てて。

冒険のさなかにあっても、常識人かつ頼れる長男ジョンはいつも弟妹を気にかけるし、長女のスーザンは兄弟で囲む午後のティータイムを欠かさない。想像力が豊か過ぎてふらふらしがちなティティもいざというときはロジャを一番に考えるし、最年少のロジャも一歩離れて見守るお母さんへの思いやりを忘れない。

突拍子もない出来事が起きなくても、人が死ななくたって、想像力でこれほど豊かな冒険が出来るという確信。それは、厳冬期の槍ヶ岳に一人で登頂しつつも、キャリアプランはちゃっかり考えちゃっているような今の自分に直接つながっている。

で、だ。懐かしいその本の新訳が出ていて買ったのにも関わらず、さっき僕はすぐに閉じた。なんとなく、訳に違和感を覚えたからだ。
ヒレカツを食べ終え家に帰ってきたいま、原書と照らし合わせ、その正体がつかめたので聞いてほしい。

冒頭のシーン、年少のロジャが母親の元まで、帆船になりきって向かって走っているところだ。

The wind was against him, and he was tacking up against it to the farm, where at the edge his patient mother was awaiting him.

これを、新訳はこうしている。

農場は風上だから、ロジャは今、帆船が風上に向かって走るときのジグザグな走り方、タッキングをしているのだった。
 農場入り口の木戸では、おかあさんが、がまんづよく待っていた。

第一、一文で表現しているものを段落分けするのもあまり好きではないのだが、一番の問題はこれ。

【、帆船が風上に向かって走るときのジグザグな走り方】というタッキングの解説を勝手に作り出してしまっていることだ。

もちろん原著にはなくて、前の文脈でなんとなく「タッキング」が何なのかわかるように書いてあるにもかかわらず、だ。
これは、旧訳にはなかった。

そんな細かいところ、と思うかもしれない。しかしながら、子供は、自分をこどもと侮るような大人の態度にはかなり敏感だ。
僕自身、そのような大人の舐めた態度をどこかに感じ取ると、天邪鬼に離れていったものだ。今思えば、その態度こそがとてもこどもじみたものだったのだけれど。

だから、僕の『銀河鉄道の夜』との出会い方は最悪だったといっていい。

僕がはじめて『銀河鉄道の夜』に出会ったのは、アニメだった。どんな機会だったかまでは覚えてはいないが、教科書にも載る宮沢賢治原作ということで、子供ながらに重厚な作品を期待していた。

しかし、のっけから出てきた登場人物は「猫」であった。それがこの出会いを最悪なものにしてしまった。

二足歩行の猫が歩く絵面を一見した僕の心には「しまじろう」の姿が浮かんで、一気に警戒心を強めた。これ、「こども向け」なんじゃないか?

そんな警戒心を持って観はじめたのだから、正直言ってストーリーの粗筋すらうろ覚え。猫である必然性も良く分からなかったしこども向けだから安易に猫にしたんだな。宮沢賢治もずいぶん俗っぽい、お説教がましいものを書いたものだとさらっと流した。
当時の自分は、原作ではみんな人間であることなんて知る由もない。(※2)

それから歳月は流れ、ネットで断片的に見聞きした情報だとどうやら猫はアニメオリジナルで、原作では人間だったことも分かったし、何なら原著を読んでみたこともあった気もする。
しかし、幼少に受け取ったイメージというものはどうにも拭いきりがたいもので。漠然といい印象を持たないままここまで来てしまった。

だがしかし、である。自分の好きな作家がこぞって「言葉の魔術師」などと称賛し、好きなバンドの名前にもなっている「クラムボン」を生み出した宮沢賢治の遺作が、「こども向け」の一言で済まされていいわけがない。

そんな心の中にしまわれていた引っ掛かりを、キナリ読書フェスが解放してくれる。こんなにいい機会はない。

過去の自分の偏見がどれだけ間違っていたのか。それともそうでもないのか。ようやく腰を据えて向かい合う機会が来たとワクワクしながら、本が届くのを待つとしよう。

さぁ、ここまで書いて、ようやく読む準備が整った。短編ということなので、読むのは小1時間もあればいけるだろう。自分のタイミングで、仕事が入らなければできればフェス期間中に読んで、感想を書いて投稿してくれ。
多少仕事が入ったとしても、フェスなんだからできれば感想は期間中に書くように。

あ、タグ付けだけ、忘れないようにね。

(※1)記憶はあてになりませんね。
ジョニーは最近読んだ漫画『子供はわかってあげない』に出てくる空想の馬。正しくはジョバンニだが、いずれも聖ヨハネ由来の名前なので、だいたい合っていた。
カンパニョーロはイタリアの高級自転車部品メーカー。正しくはカムパネルラだが、いずれもイタリア語(前者は小さな鐘の意)なのでだいたい合っていたと主張したい。

(※2)実際、原作でも「登場人物は人間である」と宣言されているわけではないので全くの間違いとは言えないが、登場人物の行動や生活、文章表現は素直に受け取れば人間である。そうでないと、世の中のほとんどの文章に同じ注書きが記載されることになってしまう。

2020年9月27日?時?分

友人の結婚式で飲み過ぎて食べ過ぎた。だれかの幸せな表情は美しい。本は届いたかな?

2020年9月29日22時9分

久々の早朝からの長時間勤務からジムを経由して帰宅すると、ポストに明らかに本とわかる小包が投函されていた。最近注文した文庫本はあれくらいなので、きっとそうだ。
部屋につくまで待てずエレベーターの中でびりびりと破って開けると、角川文庫のチェック柄の装丁が顔を見せる。今風で、岩波文庫やちくまに慣れた僕にはとても新しく映る。

年を経るごとにちょっとずつ紙の本との距離ができていて、Kindleにないような単行本以外は電子化してしまっていたなと改めて思う。薄い文庫本の感覚がどこか懐かしい。ページをめくって『銀河鉄道の夜』のページ数を確認すると、予想通り100ページもないくらい。11月22日にこの本を読むのが今から楽しみで、机のいつも見える場所に置いた。

2020年10月〇日○○時〇〇分

あれから、机の上にはいつも『銀河鉄道の夜』と印字されたチェックの目立つ表紙がある。

下から『音楽と建築』の上に積んだ『誰のためのデザイン?』の上に積んだ『Swallows and Amazons』の上に置いた、割れたiPhoneのために買ってまだ張り替えていないガラスフィルムの箱上にちょっと居高くとまっていて、椅子に座っていると角度がついて文字が詰まって見える。

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朝起きてプロテインとバナナを食べるときも、在宅で仕事をするときも、筋トレするときも、iPadで他の本を読んでいるときも、寝る前にベッドで週刊ジャンプを眺めているときもいつも視界のすみっこにいる。

積読本を目に付いたところに置いておいて、いつか時期が来た時におもむろに手に取って一気に読む。ずっと続く僕の習慣。お酒の熟成のように、いつタイミングが来るのだか、だいたいの目安やマニュアルでもあればいいのだけれど、その法則は今だによくわかっていない。買ってすぐに読み切ることもあれば、さわりだけ読んで気が乗らず再び手に取って通読するのは3年後、なんてこともある。

現に、ずっと置いてあったSFチックな本たちは、1年ほど前に起きたSFブームの中で一気に片づけた。当時の恋人と過ごす時間に別れの匂いがしてきた頃、なんとなく浮ついた雰囲気にはじまった読書集中期間だった。

『銀河鉄道の夜』は違う。熟成期間がかっちりと決まっている。一方で、noteの下書きをこうやって引き伸ばしてしまうほど、内容が気になってしまい読みたいという気持ちがある。でも、11月までは読めない。読まないと決めている。
ほしいものがあればすぐ買ってしまうこらえ性のない自分だけれど、いま、気持ちを重ねていくことの喜びが分かってきている、ような気がする。

はじめての体験をするのは、いつだって楽しい。

2020年10月8日22時

制約に従って本はまだ読まないが、つれづれに映画版が猫であった理由を調べている。特に面白かったのは、映画版の原案の漫画を描いた、ますむらひろし氏のインタビュー。

ますむらひろし氏の宮沢賢治への思い入れや、猫になった経緯うんちくを知るにつけ、アニメ版の『銀河鉄道の夜』が気になって仕方ない。胸キュン状態である(※3)。

今観たら、どうなのだろう。もはやネタバレなんて気にしてもしょうがないのだが、なんとなく原作を読む前にするのは気が引ける。
フェスが終わったら、新たな気持ちで猫のアニメと向き合おう。きっと、昔と違う感情が見つかるに違いない。

はっぴいえんどやYMO(※4)なんかをSpotifyで聴きながら気長に待とう。昔をこんなに気軽に振り返れるって、いい時代になったものだ。

(※3)YMOの楽曲「君に、胸キュン」で流行った言葉。死語。
(※4)いずれも、アニメ版の音楽を担当した細野晴臣が参加していたバンド。YMO出身で映画音楽と言えば“教授”こと坂本龍一が一般的に有名だが、思い返すと細野晴臣も源氏物語などやっていたなと再発見。

2020年10月11日9時

部屋に来た女の子が青いチェックの表紙を目にして、『この本、私も持ってる。こういうのも読むんだね。』と嬉しそうにしていた。既に買った分のもとは取れている。

2020年11月9日19時

山の夜空で銀河鉄道の夜を思い出す。

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2020年11月17日23時14分

『空の怪物アグイー』を読んだ。大江健三郎は言わずと知れたノーベル文学賞の大家だけれど、昔からなんとなく避けていた。理由はしょうもなくて、論客としての彼の発言がなんとなく肌に合わなかったから。作品に触れる機会があるたび、もっと他に読むものもあるし、と言い訳していた。そんな周辺情報に振り回されたくはないのだけれど、ちょっとした歯止めにはどうしてもなってしまう。

読んだ結果、好きだった。

今回は『A子さんの恋人』という漫画に出てきたのをきっかけに読んだわけなんだけれど、このフェスをきっかけにした『銀河鉄道の夜』もきっと好きなんだろうな。

2020年11月22日11時5分

ついに読み始める時が来た。どんな感情が現れるのか、楽しみ。

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②読んだ後

(どうだ、見出しまでつけてあげたぞ。思う存分書くがよい)

これは『わだかまりの糸をほぐし合い前に進むための、許しの物語』である。少なくとも、僕にとっては。

周辺情報に振り回されがちな僕は、感想文の類が苦手だ。読んだ後の感情というよりは、『milky way』を旅するから、ジョバンニは乳を求めて彷徨うのだなんてうんちくばかりが後にしっかりと残る。

感情を言葉にするのだって、巻末の解説を読みWikiをググり本を読み返しレビューを探して解説本なんかも読み、何度も整理されて整形されてようやく吐き出すのが僕の普段のやり方だ。

しかし、ここまで有名で語り尽くされた書物でそれをすると、自分の感情がそれなりに当てはまる文章に出会ってしまい、その焼き直しになってしまうのは必然。

なので、できるだけ本も読み返さずにここに吐き出したい。不正確な部分や思い込みもまとめて、ここに。

わだかまりの氷解

僕が最初に共感したのは、このシーンだ。

ジョバンニは坊ちゃんといわれたのですこししゃくにさわってだまっていましたがカムパネルラは「ありがとう、」と云いました。

僕が『銀河鉄道の夜』を遠ざけていた理由とまるで同じで、ついわらってしまった。

読み進めながら、どこか大人じみたカムパネルラに対して、少し子供じみて意地っ張りなジョバンニに僕はどんどん感情移入していく。けれど、全て読み終わり、このシーンはもっと象徴的であったような気がする。

そもそも何故ジョバンニは「坊ちゃん」と呼ばれるのを嫌がったか。それは、自分が家計を支える大人の一員である自覚があるからだ。父は不在で母が病床に伏すジョバンニは、活字拾いとして日銭を稼ぐ。大人であろうとしているが、大人として一家を支え切ることもできないことも重々承知する彼は、こどもでもおとなでもない、中途半端な存在だ。

印刷工場の大人は「虫めがねくん」などと揶揄して冷たく笑う。だから、ジョバンニは「坊ちゃん」などと呼んでくる大人に不要な敵愾心を抱いてしまう。

カムパネルラが女の子と話すシーンもそうだ。学校の子供たちにラッコの上着をからかわれるジョバンニは、女の子とうまく接することができなくなっている。

坊ちゃん扱いする青年や燈台看守も、女の子も、悪い人ではないとわかってはいる。でも素直になれないのが、狭間に立つジョバンニなのだ。

裕福な生活を示唆されるカムパネルラは逆だ。苹果を素直に受け取り、苹果の頰をした女の子とも屈託なく話す。

はじめから、生活の差が二人の仲にわだかまりを生んでいた。ジョバンニもカムパネルラも、お互いを好いたままでも、状況に流され疎遠になっているのをどこか遠くから眺めているようだった。誰が悪いともなく、話せばすぐに氷解するような出来事にすぐに囚われてしまうのは、大人の僕達も同じ。

カムパネルラは死をきっかけに母への許しをはっきりと自覚する。まだこの世で過ごすジョバンニは、最後にカムパネルラと旅することで、無意識ながらに許しの予感に身を委ねる。

そんな二人は口に出してお互いを許し合うことはしないけれど、さいわいを語り合うことで十分に許し合っている。

少年が大人になるのは、バンジージャンプをした時でも一人でライオンを倒した時でも酒を飲めるようになった時でもなく、「許す」ことを自覚した時だ。

そして、許しは死の境界の両面から行われる。

美しい装飾の文章は、美しい情景の合間に問いかける。

『けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう』

何かの作品で引用されていたこの文章が、いま、まさに目の前にある。

許しは大袈裟なものではなく、日常のすぐそばに転がっている。

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