書評:木村大治『見知らぬものと出会う ファースト・コンタクトの相互行為論』

著者の木村大治は京都大学大学院教授。専門は人類学とコミュニケーション論。理学博士でもある。その彼が挑んだのが「宇宙人論」である。もし、宇宙人と出会ったら、人類はどのようにコミュニケーションするのか。それを真剣に考えてきたのが、SF(サイエンスフィクション)である。本書は、SFを参照しつつ、独自のコミュニケーション論を展開する。

宇宙人は大きく3種類に分けられる。すなわち、友好系、敵対系、わからん系である。友好系は人類と問題なくコミュニケーションが取れる宇宙人、敵対系は地球を侵略してくる宇宙人、わからん系は『ソラリス』のように、相手の全貌や意図がさっぱり分からない宇宙人(?)である。ここで面白いのは、敵対系について、少なくても敵対していることは「理解できる」宇宙人、と分類していることである。

では、宇宙人を描くことが、いったい現代アートとどのように関係するのか。プロローグにあるように、SFにおけて、宇宙人を描くとは「想像できないことを想像する」試みである。同じように、現代アートは、既存のアートの枠組みを疑い、それを拡張して、新しいアートを生み出そうという試みである。現代のアーティストは、過去のアート史を参照しつつも、それとは違った、まったく新しい作品を生み出す。こうして、歴史が更新されてきたわけである。それは言い換えれば、「想像できないことを想像する」試みの連鎖ということができる。

では、想像できないことを想像するには、どうしたらいいのか。第2章に記述がある。そこで出てくるキーワードが「ピボット」と「引き延ばし」である。ピボットとは、バスケットボールの用語にもある通り、軸足(ピボットフット)をもちつつ、もう一つの足(フリーフット)を自由に動かすことを言う。ここでは、人間という既知の存在をピボットフット、宇宙人という未知の存在をフリーフットに例えている。宇宙人は、まったく未知といいつつも、どこかで「人間的」にならざるを得ない(当たり前といえば当たり前だ、そもそもまったく人間と異なる存在であれば「人」とは呼ばれないだろう)。その状態をピボットのようだと言っているのである。「引き延ばし」も似たような概念である。「ある部分を人間にピン留めしたままで、別の部分を人間ではない「どこか」の方向に極端に引き延ばす、そういった「状態」こそが、宇宙人表象なのである」。これを現代アートに敷衍するならば、過去のアート作品がピボットフット、新しい作品がフリーフットということになるだろう。新しい作品は、過去を参照しつつも、やはり何かしらまったく新しい要素を備えているからである。

著者の前著に『括弧の意味論』がある。たとえば、鉤括弧を使って、「進歩的」というとき、私達は、いわゆる進歩性という意味を指している。つまり、地の文章とはコンテクストが異なる外部からの引用であることを指している。この話を聞いたとき、私はデュシャンの『泉』を思い浮かべた。泉はまさに括弧つきの「作品」として、美術史に導入された。それまでまったく作品と考えられなかった物体を使って、これまでとはまったく異なる方法でプレゼンテーションしたにも関わらず、それは作品とアーティストによって名指され、反対もあったものの、けっきょくは、美術史はそれをアートと認めたからである。このような行為を木村は「投射」と呼んでいる。未知のものにむけて物を投げるようなイメージから、そう名付けられたのだろう。

本書の中心は4章にある。ここでは、「規則性」について語られている。「規則性を持つ」とはどういうことか。たとえば、車の距離メーターが99999とか、12345になると、私達は珍しいなあ、という感触を得る。それはそれらが規則的(パターンを持っている)と思われるからである。それはいいかえると、「9が5つ」「1からはじまり1つずつ増える数列」である。これが「規則」に当たる。ここで大事なのは、99999を9の次に9が来て、その次にも9が来て、、、というよりも「規則」が「短い」ということである。情報量が少ないと言っても良い。さて、ここで問題は「規則」はいくつもありえるということである。では、一番短い規則はなんだろうか。じつは、それは「分からない」のだそうである。詳細は本書を参照いただきたいが、これを計算不可能性定理と呼ぶ。ここで大切なのは、最短なものはわからないが、「何らかの」規則はふつうに存在するということである。これは、作品と解釈の問題に敷衍して考えることができる。ある作品を説明するのに、解釈の方が作品より情報量が多いのでは解釈にならない。その意味で、解釈は作品より情報量が少ないことが要請される。しかし、どの解釈が一番短く作品を説明できるか、と言われると「わからない」のである。

計算不可能性定理から著者は2つの困難を見つける。ひとつは上記のとおり、より良い説明が見つかる可能性に関わる困難である。これを著者は「内向きの探索の困難」と呼んでいる。それに対して、さまざまなパターンを並べたときに、突然規則性が見つかることがある。それをあらかじめ予測することができるか、という問題が「外向きの探索の困難」である。これはアートに引き寄せて捉えれば、ランダムに「物体」を並べていったときに、「作品」と呼びうるものがいつ現れるか、ということになる。つねに新しい手は現れうるので、前もって言い尽くすことはできない。著者は、それをサッカーのプレーに例えている。サッカーのプレーはいろいろありえるが、私達は、おもわず「意味のあるプレー」「創造的なプレー」と呼びうるものを発見することが(実際)ある。では、ここでいう意味や創造性とは何なのか?私達はそれを個別に指摘することはできるが、その全体をまえもって指し示すことはできない。アートでいえば、意味ある作品とは何か、創造的な作品とは何か、という質問に対する「唯一の正しい答え」はないのである。ここから著者はウィトゲンシュタインの言語ゲームを引用するのだが、それは本書にゆずるとして、ここでは1つだけ、P.132にある記述に注目しておく。「このように「いいアルゴリズム」「うまいやり方」は、「美」の感覚とも結びついてる。ただし、「最小のアルゴリズムで記述できるもの」が「もっとも美しい」ことになるかどうかについては、議論の余地がある」。まさにその先が聞きたいところである。

アートをコミュニケーションと捉えることもできる。すると、アートとは、ある、個人的で言い難いものを他者に伝えるゲームともいえる。ではそれはどのようにして可能なのか。それについては5章に詳しい。そこでは、コード、身体、自分という3つが「リソース」となって、他者とのコミュニケーションが可能になる、という仮説が検証されている。おもしろいのは「リソース」という言い方だ。「リソース」には、とりあえずそこにあるから使っている、というようなニュアンスがある。そこにコードという規則がある「から」、身体がある「から」、自分を参照する「から」、他者とのコミュニケーションが可能になる、のではない。そのような「説明原理」としてではなく、「道具」として使う実践(相互行為)を著者は重視している。

第8章では、再び「投射」について語られている。ここでは、「宇宙人を描くような「長い投射」と、日常実践における「短い投射」について論じられているのだが、「長い投射」はアートの文脈でいうと、様式の変化(ポップアートやミニマルアートといったムーブメントの栄枯盛衰)、「短い投射」は日々の芸術実践(個々の作品制作)ではないか。ここでは、とくに「長い投射」に注目したい。著者は、「長い投射」のことを、「「世界にはどうしようもなくわからないものがある」という覚悟であり、それをわかろうとする志向性である」といっている。これはまさしくアートに関わるものがもつ姿勢ではなかろうか。アート史は、長い投射によって下支えされている。

本書は、実のところ、すこし読みにくい。正確にいうと、読みやすい部分と、読みにくい部分の落差が激しい。高度に哲学的な部分と、SFの紹介が交互に現れるからだ。これを著者は「糖衣錠」と呼んでいる。苦い部分を甘い砂糖で包んだというのだ。なるほど、と思った。場合によっては、甘い部分だけを楽しむのも間違いではないだろう。しかし、すべてを理解するのは難しいとしても、苦い部分にもチャレンジしてみたほうが、本書を楽しむことはできるのではないか、と思う。

木村 大治『見知らぬものと出会う: ファースト・コンタクトの相互行為論』
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