市民や利用者だけでなく非ー人間の参加を通した温泉や地熱発電の協働的設計

先日あったサイエンスアゴラというイベントでご一緒した鈴木杏奈さんが僕の発表を参照して文章を書いてくれました。
https://note.com/anna_suzuki/n/n4e5300ac2f69

■美学、倫理学、論理学
設計における美学、倫理学、論理学の関係についての僕の考えを紹介しています。これは哲学者チャールズ・サンダース・パースの規範学normatice scienceの構想を発展させて設計の理論にしたものです。パースは論理学は倫理学に依存し、倫理学は美学に依存すると考えました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/79/703/79_1881/_article/-char/ja/

設計はしばしば問題解決のプロセスとしてみなされます。問題解決はたしかに論理的なものです。しかし問題解決は問題設定に依存しています。問題設定は論理だけでは決まらず、究極的には倫理の話になります。さらに何かしらの仕方で感じられることについてしか問題にできないのだから問題設定は美学に依存しています。

設計が論理的な問題解決として捉えきることはできないから倫理が大事ということは、1970~80年代にホルスト・リッテルやドナルド・ショーンが指摘しだしたことです。だけれど設計を論理的な問題解決としてのみ捉える見方は今でも一般的です。とくに工学分野のばあいそうかと思います。しかしそれも変わってきているのかもしれません。地熱発電や流体力学といった工学を研究しながらも、温泉地のまちづくりに取り組んでいる鈴木さんが僕の発表を聞いて考えが整理されとのことで、とても嬉しかったです。

■探究
もう一つ僕がパースから得た概念として「探究」があります。パースはあらゆる認識は習慣に媒介されているので絶対的ではありえないという可謬主義の立場から、習慣の更新のプロセスとしての探究の構造を研究しました。
https://ci.nii.ac.jp/naid/500000916241

探究はアブダクション、演繹、帰納という三段階から構成されます。仮説をたて、その帰結を予想し、実験する。すると予想しないことが起きる。この予期せぬものによってもたらされる驚きが新しい仮説を生み出すきっかけになる。こうして三段階は循環します。

パースは科学者であり、論理的な次元での探究を想定していたのですが、僕は倫理的・美学的な探究があると考えています。何が真であるのか(合理的、最適、効率的etc.)、だけでなく、何が正しいのか(やさしいのか、公正なのかetc.)、何か美しい(かっこいい、かわいいetc.)のか、価値観を更新する(あるいは育んでいく)探究です。そのためには、正しいとか美しいと思うことを実際にやってみるという実験が必要です。実際にやってみると予想しないフィードバックが得られます。自分が失敗したと思っているものをカッコいいという人が表れたり、もちろん逆もありますが。このフィードバックが価値観を深めるきっかけになります。

設計とは固定的な価値観のなかでの問題解決ではなく、倫理的・美学的な価値観を更新していくプロセスです。

鈴木さんがいう地熱発電の「手触り感」(落合陽一さんの発言からの引用ということですが)も、倫理的・美学的な探究とかかわります。地熱発電の設計も、ただ安定的に効率的に発電出来ればよいということではなくて、いろいろな倫理的・美学的な価値をさぐることになります。倫理面では、(たとえば都会との対比における温泉地や発電所の立地の)社会的政治的経済的な権力構造と関わる。美学面では山の景観や硫黄の匂いや湯煙の雰囲気と関わる。そういたことがらは、これまで全く異なることがらとして別々の分類箱におさめられていました。しかしそれらは分かちがたく混ざりあって手触り感を生み出します。鈴木さんがいうように「地熱開発は科学技術,温泉は文化」と一般的にとらえられています。しかし手触り感においては科学と文化は分けることができない。手触り感という言葉が良いのは俯瞰的でないことです。そうした混合物の総体を捉える俯瞰的で客観的な視野は存在しない(セカンドオーダー・サイバネティクスにおいてそういうことが議論されます)。ローカルに手さぐりで追っていくしかない。

■参加型デザイン
設計が論理だけではできないということは、一部の専門家による技術的問題解決として閉じて行うべきではなということです。多様な価値観をもった市民や利用者といったステークホルダーの設計プロセスへの参加が重視されるようになりました。ところが参加といっても単にニーズや意見を聞く程度のことが多いと思います。専門家が探究の主体としてみなされることがあっても、市民や利用者などの非専門家は受動的な存在として扱われがちに思われます。しかし市民や利用者の価値観も変わっていくものです。それは外から(たとえば教育によって価値観を押し付けられることで)コントロールされて変化するということではありません。市民や利用者も探究をとおして自律的に変化していくことができます。だから、本当は、専門家と非専門家がともに美学的・倫理的な探究の主体となり価値観を育んでいくということが望ましい。それは共有された一つの価値観を生み出すということだけでなく、異なる価値観が併存する状態を生み出すことでもあります(ポリフォニー)。そのことを促すような参加型デザインのあり方を問いたい。

このことが温泉地におけるまちづくりや地熱発電のデザインを考える一つの視点になると思います。「温泉の源泉所有者は,先祖代々引き継がれた井戸を後世に残すため,自然を守るため,影響がないとは言えない地熱開発を反対する」と鈴木さんは言います。自分たちが関われないブラックボックスが、しかも良く分からないけれど害があるかもしれないものが出来てしまうとしたら、地域の人は当然反対すると思います。地域の人々が使うエネルギーを地域で生み出す。そのために地域の人々が地熱発電のデザインと管理運営に参加するという形が好ましい。電気代が安くなるといったような合理性だけではなく、美学的・倫理的なレベルで仮説を表明し実験し体験をとおしてフィードバックを得ることができるやり方が良いと思います。そういう場面でアーティストが求められることもあるでしょう。

■コモンズ
今日、人々は消費者であることに慣れてしまっています。サービスを提供するがわと受ける側という二元論的な枠組みが強固です。資本主義社会というのはその一因だと思います。資本主義にはもちろん良い面もあって、競争によって商品の質が良くなたり安くなったりイノベーションが起きたりもします。他方で多くの人々は自分たちで物事を生み出すことをやめて、探究できなくなる。労働市場でお金を得て、そのお金で商品を市場で購入するようになる。会社では組織の価値観に従うだけになる。家では企業が生み出した価値を消費するだけになる。過去には市場に依存せずに生活するための基盤として、コモンズというものがありました。コミュニティで協働的に管理される資源です。人々が探究の主体となるためには、ポスト資本主義社会をうみだしていくことが必要であるように思われます。それは何もおおげさな革命をすることではなくて、市場で物事を購入するかわりにコミュニティで生み出していくようにすることで(僕はこれをコミュニティによる輸入置換と呼んでいます)、少しづつ準備することもできるように思います。そういう観点で、DIY(Do It Yourself)に関心があります。
https://note.com/hylozoic/n/n7cc806f0b0e9

京都で空き家群を改修して利用者で運営するということをしていますが、これも人々がコモンズを協働的に生みだすことを通じて探究することができる環境を作るという意図があります。
https://www.amazon.co.jp/dp/4334043828/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_R7z4Fb7AFF0ZJ

水やエネルギーは食料とともに完全に市場に依存するのではなくコモンズによって生み出すことが大事な分野だと思います。市場経済における経済成長や競争原理の方向性と合わない。ローカルな地熱発電の仕組みを地域コミュニティによって協働的に生み出し管理することができたらよい。そのときには市場における合理性とは異なる価値の基準を参加者で探究していくことになるとおもいます。エネルギーの協働的な管理に参加する。自分の裁量による判断のフィードバックが得られる。そうしたことで、これまでブラックボックスになってしまっていて安さとかでしか判断できなかったエネルギーに、手触り感がうまれるのではないでしょうか。

■自然
コモンズの再生とポスト資本主義社会が望まれる理由としては、もちろん今日の気候変動をはじめとしたエコロジーの問題があります。資本主義をほおっておく以上は気候変動は解決しない。斎藤幸平さんがそれについて本を書いています。
https://book.asahi.com/article/13965360

ところで一般的には人間が自然をちゃんと管理しようという話になるのですが、そのばあい自然は受動的な存在です。人間が滅びないように、自然を維持する。人間中心主義anthropocentrismとよばれます。
これを批判する非人間中心主義non-anthropocentrismや、非人間中心主義的デザインということが、ここ数年でしばしば議論されるようになってきています。ラトゥールのアクターネットワーク理論などがよくこの文脈で参照されます。

僕も自然(とみなされる人間以外の存在、動植物やモノ,、つまり非ー人間non-human)の側の能動性というか主観性のようなものがあると考えたほうた良いのではないか考えています。人間の主観性というのも非人間とのかかわりのなかで生まれるものなのだから、最初から二項対立の図式を導入すべきではない。モノが生きているという考えを物活論hylozoismと呼びます(パースの哲学も物活論的で、彼の記号論は人間社会に閉じたものではなく、人間と非人間を横断する記号作用をあつかいます)。僕は設計とはモノとの対話だという物活論的な設計のあり方を探りたい。
https://note.com/hylozoic/n/n02c5f037c8c0

温泉や地熱発電もまた、人間の視点だけではなく、火山や鉱泉やそこに住む微生物や動植物の視点からも設計するとどうなるでしょうか。市民や利用者だけでなく非ー人間の参加を通した温泉や地熱発電の協働的設計。そういう考えは今はまだ突飛にきこえますが、何十年かすれば一般的になるのではないかと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?