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兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑤『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』――80年代ニヒリズムを先取りした者たち

 さて、久し振りのこの企画です。
 今回も何というか、だらだらしゃべりという感じですが……まず、本作についてご存じでしょうか? 観てない方も、動画の第43回でちょっとシーンをご紹介していたので、思い出してください。敵の怪人がゆで玉子食って爆死してましたよね。

 本作については、今までも何度か言及していますが、多くが(先の動画もそうであるように)『セーラームーン』と比較しての、極端に言えば『セラムン』のご先祖様としてのご紹介でした。
 この『ゴレンジャー』こそ集団ヒーローの元祖。前例もあったことは以前に『トリプルファイター』などをご紹介した通りですが、大ヒットを飛ばしたのはやはり本作が初。結果、現在に至るまで戦隊シリーズが続き、パロディなどで特撮ヒーローが描かれる場合、ウルトラよりもライダーよりもおそらく、戦隊が使われる率の方が高い。放映は1975年ですが、まさに本作は80年代型のニヒリズムを体現した存在であり、パロディと最初から親和性が高かった(本作そのものが一種のパロディであった)からでしょう。
 まず、従来の作品においてはヒーローは一人でした。それが五人になるだけで、そこにはヒーローの相対化が生まれます。リーダーのアカレンジャー、サブリーダーのアオレンジャーは典型的なヒーローですが、三枚目のキレンジャー、女性のモモレンジャーが登場することでヒーローという存在そのものが絶対的というよりは「誰もがなれる」相対的なものになってしまったんですね。

 もちろん、だからこそキレンジャーもモモレンジャーも人気キャラとなったのですが、これこそが相対主義、「二枚目はモテない、個性の時代」という当時の状況を示しています。ちなみにこのフレーズは『行け!孫悟空』というドリフメンバーが『西遊記』のキャラを演じる人形劇のテーマソングの詩を意訳したモノ。歌はピンクレディーでした。
 そう、このピンクレディー(という当時のアイドルデュオ)の歌う歌がいちいち戯画的だったことも、ドリフがコミックバンドであったこともまた、やはり同様に当時の相対主義、ニヒリズムを象徴していました。
 当時はドリフの若手、志村けんが絶対的な人気を誇っており、上の『行け!孫悟空』で孫悟空を演じたのもやはり志村だったのですが、(同作にピンクレディーが、そして毎回のゲストに様々な芸能人が出演したことと同様に)同時に当時はドリフのコントにも、積極的に芸能人が登場していました。
 中でも歌手としても絶頂期を迎えていたまさにモテモテの二枚目、沢田研二はよく登場し、志村がジュリー(というのが当時の沢田の愛称でした)のコスプレをして、沢田自身は付き人を演じて志村演じるジュリーに平身低頭するというコントを嬉々として演じておりました。
 まあ、元々そういうのが好きだったんでしょうが、同時にドリフ人気は上の「(つんとすましているだけの)二枚目はモテない」を実証するものでもあり、ジュリーもそこを見抜いて、バラエティに参戦していたわけです。

 さて、『ゴレンジャー』、動画に挙げたおちゃらけた必殺技も登場は中期からであり、当初は比較的、シリアスでした。本作はそもそも人がバタバタ死ぬ凄惨なスパイ戦の様相を呈しており、それ自体は最後まで透徹された要素でありました。が、ごく初期から敵の怪人が何の意味もなくキレンジャーにカレーを振る舞うなど、どこか呑気な、ギャグ作品めいた描写もちらほらと見られました。
 これはやはりドリフ人気に影響されたものだと思われ、必殺技ゴレンジャーストーム(上に挙げた怪人の弱点に変形し、一くさりコントをやってから爆死)というパターンが確立して以降、その暴走には歯止めが利かなくなったわけです。

 しかし――ある意味、この『ゴレンジャー』路線の真の暴走は、次回作『ジャッカー電撃隊』でこそ花開いた……と、ぼくにはそう思われます。
『ジャッカー』は当初、シリアス路線に立ち返ったドラマ作りがなされていました。
 敵の「クライム」は世界征服というよりは利潤を追求する犯罪組織。主人公たちにもキレンジャー的な布陣はなく、悪く言えば地味、よく言えば大人な役者が配されました。
 人気シリーズの次回作が「視聴者も成長したろう」とのことでやや対象年齢を上げるのも、そしてまたそれが失敗に終わり、また低年齢向けに路線変更するのもこの種の番組で無限回数繰り返された「あるある」なのですが、本作もそれに倣い、途中からはシリアス路線を捨て、ジャッカーたちもコミカルな役どころを演じるようになり、そして――中盤からは「行動隊長番場壮吉・ビッグワン」が登場することになります。
 スペードエース、ダイヤジャックとトランプをモチーフにした(これも大人な)ジャッカーに、ビッグワンはいきなりド派手な「白い鳥人」としてメンバー入り。それも今までの四人を顎で使うリーダー格です。
 演じるのはアオレンジャーでも(そして仮面ライダーV3、快傑ズバットとそれまでもヒーローを兼任して)絶大な人気を得た日本一のヒーロー役者、宮内洋。要するに番組のピンチに際し、視聴率要員として投入されたのです。
 ところが……彼がまた、何とも形容しがたい怪キャラクター。
 毎回敵の怪人に囚われるなど、危機に陥る(変身前の)ジャッカーの面々。そこに現れる謎の男。この謎の男は毎回ほっぺにでっかいホクロをつけるなど、珍妙な三枚目として演出され、例えば釣り人であれば怪人の頭に釣り針を引っかける、例えば怪人がヒトラーに心酔している場合、ヒトラーに変装して、「余がジャッカーを処刑する!」と進み出てくる。
 ところが、その正体は番場壮吉。上のような珍妙なコスプレでおどけていたのがジャッカーを救い出すや一転、キザに笑い、変装を解くと白いテンガロンハット、白いスリーピース、白いステッキという紳士の正体を現し、怪人へと胸のバラを投げつける。

これが……。

こうなる。

 その間にジャッカーは変身、番場もいったん姿を消しますが、決戦ではやはりビッグワンに変身して再登場、必殺技の指揮を執ります。
 つまり、『ゴレンジャー』ではあくまで(キレンジャーを除き)道化を演じるのは敵の怪人という縛りがあったものを、本作では正義の隊長自らが、道化を演じてしまうのです。
 もっともこの変装パターン、番場壮吉が登場して三話目くらいで定着するものであり、本当に現場では大慌てで、見切り発車で新キャラを投入していたという混乱ぶりが窺えます。
 番場隊長自身、当初は部下の危機にあってもパチンコに出かけたのではないかと疑われたり、どういうわけか基地内でインスタントラーメンを鍋から直接啜るなど、昼行灯キャラとして設定されていたとも思しいのです。
 言うなら、テコ入れとして作品をギャグっぽくしようという意向がまずあり、一方では新キャラとして人気のある宮内洋を投じるという戦略も採られた。番場は当初は三枚目キャラを想定されていたけれども、そこを宮内が(宮内の適性を知るスタッフが)アレンジし、「三枚目を演じるが、実は格好いい」という不思議なキャラクターが誕生した。
 そんな、ややこしい裏事情が仄見えてくる。
 それもこれも、相対主義の時代にいかに二枚目を登場させるかというトライアルだったと言えましょう。

 もう一つ、余談ですがもう書き留める機会も二度とないだろうし、姫玉三郎についても書いておきましょう。
 番場壮吉と共に投入された、若手の噺家さんの演じる新キャラです。ジャッカー本部の炊事係を務めるコメディリーリーフなのですが、何故か番場との絡みが多いのです。
 これは明らかにアオレンジャーとのかけあいで人気を博したキレンジャーの路線を再現しようとしたキャラなのですが、一般的には評判がよろしくありません。しかしぼくは結構、好きなのです。
 アオレンジャーキレンジャーは両者ともが芸達者で、そこがよかったのですが、玉三郎はそもそも役者でもない若手の大抜擢。正直、演技などは拙いのですが、そこがいかにもな天然の素っ頓狂さ、馬鹿っぽさを生み出していました。
 昭和の東映作品においては、(というか、おそらくこの時代は全般的に)三枚目というのはとんでもないアホキャラとして設定されていました。しかし子供には、そういうのはあまり評判がよくなかたように思います。
『仮面ライダー(新)』の飛田今太やがんがんじい、『キカイダー01』の百地頑太、後はちょっと違うかも知れないけれども『仮面ライダーV3』の佐久間ケンなど、彼らは徹底してアホで役立たず、ヒーローたちに疎まれるというのが役どころ。
 こうした三枚目は、言うなら前時代的な「ヒーローと、道化」の身分制を完全に前提した存在でした。ヒーローに絶対性がある以上、道化もまた絶対的なアホでなければならなかったのです。
 ところが、まさに戦隊が象徴する「一人ひとりがヒーロー」、「二枚目なんかじゃモテない」という民主化の流れにあっては、これは忌避される感受性であったのでしょう。
 逆に成功したコメディリリーフは(まずはキレンジャーがその代表であり、古くは『ウルトラマン』のイデかも知れませんが)『キカイダー』の服部半平、『宇宙刑事』の大山小次郎など、「アホで間抜けだが、それだけでない何かを持っている」者たちです。ボスボロットもそうですね。
 ところがこの玉三郎は当時としても古い、徹底した「単なるアホ」。しかしだからこそ「アホだけど格好いい」というとんでもなく先進的なキャラであった番場の相棒たることで、いい引き立て役として機能していたように思うわけです。
 そしてこれはある意味、「価値相対化が、民主制が、ダイバーシティがそこまで諸手を挙げて素晴らしいものと言えるのか」という、アホキャラからの最後の問いかけでもあったのです。

 姫玉三郎は上にも挙げた番場のコスプレをしての活躍の場で、往々にして共に変装をして活躍していました。また、番場自身が玉三郎に変装して敵を惑わしたこともあります(それがホンモノの玉三郎以上の、当時でも前時代的な田舎っぺキャラ!)。
 つまり玉三郎は番場の半身であり、80年代以降のヒーローもギャグをやることが常態化した作品群において、玉三郎は番場に吸収されたのだ、ということができるのです。
 先にドリフと沢田研二について述べましたが、当時の番組ではドリフのコントが終わると舞台が回転し、コントで道化を演じていたアイドルたちはバンド演奏をバックに一曲披露したものです。
 さんざん道化を演じた番場が変装を解くやイケメンに、そしてシリアスなバトルへと移っていく。これはドリフのコントと、構造が同じです。
 テレビ時代になって、憧れられる映画スターよりも親しまれるテレビアイドルが人気を博するようになった当時の時流に、明らかに本作は影響されていました。何しろ、番場が加トちゃん的なおまわりさんに変装する話もあるのですから。
 つまりこれは宮内洋という稀代のヒーロー役者を得ることで、ギャグをやりつつも格好いいという、「ヒーローの絶対性」を、「正義」をぎりぎりのところで保った、奇跡のような作品であったと言うことができるのです。
 もっとも、「正義」への懐疑そのものはこの連載でずっと繰り返すように、時代の流れではありました。
 次回は――と言ってもいつになるかわかりませんが――『タイムボカン』シリーズでそれを語りたいと思います。
 これについてはぼくもちらちらと見ていただけであまり詳しくないのですが(今時は全話を視聴しようと思えばできるのですが、さすがに時間が取れません)、実は数年前、準備のためにムックなどを買い集めていたこともあり、何とか付け焼き刃のまま語っていこうかと思います。

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