「障碍」の「治療」

「反治療文化という概念に対するシンガーを引用した明確な反対表明、および借金玉のスタンスの表明。」https://twitter.com/i/moments/958999224128978945

上記におけるシンガーの引用をコピペ。(私は『実践の倫理』そのものは読んでいない。)

『私の議論は、障害を持ちつつも人生を最高度に生きたいと願う人々には、そのためのあらゆる可能な援助を与えるべきである、というものである。他方、反対意見は、これから生まれてくる子供について、障害のある人生を始めるのかあるいは障害のない人生を始めるのかを選択できる状況でもし我々が障害のない子供を持つ方を選択するならば、その根拠となるのは単なる偏見あるいは先入見でしかない、と論じているのであり、それは私の議論とは全く別物である。次のような仮定をしてみよう。動き回るためには車椅子に頼らぎるをえない障害者に、奇跡の薬が突然提供されるとする。その薬は、副作用を持たず、また自分の脚を全く自由に使えるようにしてくれるものである。このような場合、障害者の内のいったい何人の人たちが障害のある人生が障害のない人生に比べて何ら遜色のないものであるとの理由をあげて、その薬の服用を拒否するであろうか。障害ある人たちは、可能な場合には、障害を克服し治療するための医療を受けようとしているが、その際に障害者自身が障害のない人生を望むことは単なる偏見ではないのだということを示しているのである。障害者の内には、障害者が生きていく上での多くの困難は社会によって押しつけられたものであるがゆえに、自分たちはこの薬を飲むのだという人もいるかもしれない。彼らは、自分たちを障害者に仕立てるのは社会状況であって自分の身体的あるいは知的な条件ではないのだ、と主張しているのである。社会的状況のゆえに、障害者の人生が必要以上に困難なものになっているというのは真実であるが、障害者による今述べた主張はこれをねじ曲げてまったくの虚偽の主張へと変えている。歩いたり、見たり聞いたりできること、苦痛や不快をある程度感じないでいられること、効果的な形で意志疎通できること、これらはすべて、ほとんどどのような社会状況でも、真の利益である。これを認めるからといつて、これらの能力を欠いている人々がその障害を克服し驚くべき豊かさと多様さを持った生活を送ることがありうるということを否定することにはならない。にもかかわらず、非常に大きな困難が予想され、それを克服するということだけで大仕事であるとわかっている場合自分のためであれ子供自身のためであれ、その困難に直面しないという選択をするとしても、我々は障害者に対して偏見を示しているわけでは全くないのである。』

 シンガーのこの議論は甘いと思う。

 まずは同意点から。
 『これから生まれてくる子供について、障害のある人生を始めるのかあるいは障害のない人生を始めるのかを選択できる状況でもし我々が障害のない子供を持つ方を選択するならば、その根拠となるのは単なる偏見あるいは先入見でしかない』という主張が誤りである、つまり、そこには『単なる偏見あるいは先入見』に留まらない、社会状況によって発生する多くの困難を避けたいという当事者の(利害判断に基づく)ニーズがあるという点については私は正しいと思う。
 また、『ほとんどどのような社会状況でも、真の利益』となるようなこと(或いは「能力」)が存在するという点にも同意する。例えば、『苦痛や不快をある程度感じないでいられること、効果的な形で意志疎通できること』はそこに含まれるだろう。また、どんな社会状況でも、視覚や聴覚が全く機能しないことで失う「利益」は存在する。(ただしそれが『真の利益』に含まれるかは議論の余地あり。)

 次に批判点。
 上で同意した主張が正しいとしても、『自分たちを障害者に仕立てるのは社会状況であって自分の身体的あるいは知的な条件ではない』という主張(或いは障碍のいわゆる「社会モデル」という「視点」)が『まったくの虚偽の主張』であることにはならない。
 例えば、車椅子に頼らざるをえない障碍者が自分の脚を全く自由に使えるようにしたいと望むのは、「歩けること」が『真の利益』であるからではなく、現在の社会状況においては車椅子よりも自分の脚で移動できるほうが便利で困難や苦痛や不快が少ないからである。つまり、健常の脚よりも便利な移動補助器具が開発されたり、車椅子に最適化した地域設計がなされたりする社会状況であれば、「身体的条件」としては同じでありつつ、もはや「障碍」は存在しない。シンガーのように、「障碍」を無くすための『奇跡の薬』として、健常的身体への「回復」しか想像できないということこそが健常者中心的視点であり、ある種の「偏見」なのである。
 同様に、『効果的な形で意志疎通できること』に関して、例えば自身の喉で発声するという方法に限定される必要はないし、どの程度効果的である必要があるかということも社会状況によって規定される。

 以上の議論から、「障碍の治療」に関して何を『真の利益』と見なすかということに(健常者中心主義的な)「偏見や先入見」が関係してくると言える。

 『真の利益』のためには「治療」も厭わないという障碍者の利害判断を尊重することと、その「治療」が健常者中心主義的方法に限定されないように、現在の治療文化を批判しつつ『あらゆる可能な援助を与えるべきである』とする立場は、両立するはずである。

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