「わからない」人の投票率を上げるための「インセンティヴ」論、に対するコメント

 何か元記事の論がぐちゃぐちゃなので烏蛇氏のコメントもすっきりしないな。

 記事内で言及されている「わからなさ」は、『誰に投票するかの基準が分からない』という(だけの)問題ではないと思う。もっと根本的に、税制度や社会保障制度、経済理論や法改正など、(狭義の)政治が問題にすることについて、政治家が何を言っているのか分からないし、それが正しいのかも分からない、ということでしょう。それらが(ある程度)分かっていても、どの争点を優先すべきかなどで、誰に投票するかの基準が分からない・決められないということはありうる。つまり、言及されている「分からなさ」は、投票先を選ぶというレベルの話(だけ)ではない。(勿論、根本が分からないからその上のレベルとして選べないのであって、問題としては繋がっている。)
 ところで、厳密に言えば、政策方針の正しさを検討・検証するなんてことは、(インテリ層でも専門が違えば)出来る人はそうそういない。むしろ、完全に理解できずに、正しいかもわからないまま(或いは分かった気になって)投票できている人のほうを取り上げて参考にしたほうが良いのではないかと思う。
 話を戻そう。上記の、政治論題の意味内容も論の正しさも「分からない」という問題は教育の問題であるという元記事の指摘は正しい。投票に行かない層が居住地の対抗心云々で動くのかという点については根拠不足だと思うが、教育を変えるために自治体にプレッシャーを与えるというのは意味あるだろう。
 『ワースト投票率の市とかに住みたくない。なぜなら政治家が無視するようになる』『ワーストに選ばれた市町村の自治体が不名誉に感じ、なんとかしようと手を打ち出す。』『つまり、教育が変わり出す(上記ツイッターの大きな問題は教育だった)。』『「政治に関心をもってもらう」「投票の意義をわかりやすく説く」……だけでは上記ツイッターに書いてあったような人たちは動かない』
 選挙や政治のことについて分かりやすく説明することは「教育」に含まれると思うが、問題は教育だったと言いながら教育だけではダメだってどういうこと。投票に行かない理由の問題が教育にあるのなら、教育を受けるインセンティヴを論じるべきであって、小手先で投票自体のインセンティヴをどうこうしようとしても無意味でしょう。投票に行かない理由が解決していない。二つ目のnote記事を見るに、「分からないから行かない」ということを別の「行こうかな」要因で抑え込んで行かせる、ということなんだろう。この点、そもそも投票率を上げること自体に意味があるとは私は思わない。極端な話、投票に行った人に国や自治体から現金がもらえるから分からない人が分からないなりに(或いは無効票を)投票する、という状況と、分からない人が投票しないという現状とで、前者のほうが「より良い」とする根拠は不明。(投票率上昇それ自体ではなく、まず動機は何あれ投票に行くことでそこから政治や選挙に関心を持ってもらえる、などの別の意味づけがあれば話は別。ただしその主張の真偽は要検討。)

 また、上記の「分からない」問題に対してインセンティヴ一般が意味ないとする烏蛇氏も誤り。勉強の仕方が分からない子どもの成績を上げるために勉強の仕方を教えるときに、子どもの学びのインセンティヴは重要なポイントです。
 教育に関しては、そもそも『今の公民科』をどう認識しているのかが人によって違うだろうが、『「特定の政治的立場に偏った教育はできない」という制約のもとで』あっても、上記の政治論題の意味内容の分からなさや選挙についての分からなさ(親しみのなさ・とっつきにくさ)を解決することは可能だろう。そうした教育を「選挙教育」と位置づける必要はない(公教育内の「政治教育」としてやればよい)が、そうした位置づけに特に反対する理由もないように私は思う。
 「自由」概念を烏蛇氏がどういう定義で使っているのか不明だが、投票義務化や懲罰導入などがない限り、多少の政策的優遇や推奨・プレッシャーがあっても「投票に行く/行かないを自分で決める自由がある」と言えるだろう。自由の制限の話が元記事に出てきていないのに何故ここで「自由」概念が出てきたのか謎。

 『「アジェンダ設定」自体が政治性を帯び』るというのはまったくその通りなのですが、その程度の「中立性」違反ならば既に今の公教育で行われていると思いますし、そもそも教科書で何を取り上げるか、教科書のどこを飛ばすかなどにも「政治性」があり、また、アジェンダを何も設定しない・何も取り扱わないことが果たして「政治的中立」なのかという問題もあります。

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