「誰とでもセックスできる人」

今回の事例の話

 まず前提として、事例の話から行こう。

(追記:はちみつレモン氏(@nyannyan333vv)がツイッターアカウントに鍵を掛けたためここにあったツイートがなくなっている。)

 元TWに関して、yukari氏(@yukaring1117)は「セッは誰とでもできる」とプロフィールに書いており、はちみつレモン氏がその情報を用いたことそれ自体はセックスワーカー差別ではない。(もちろん、差別でないということは、全く何の問題もないということを意味しない。)しかし、『セックスだれとでも出来る人』であっても『チ○コ怖い』という感覚を持っている場合はあるという点で元TWは誤りだし、連TWの『自分のチンコ好きや自分のチンコを承認してもらうために男性恐怖症の女性を叩きたいだけだろ。』というのは明らかに誤った動機の勘繰りでありかつ「チンコ好き」というのは風俗店勤務(経験)から決めつけるのも「誰とでもセックスできる」ことから決めつけるのも偏見だ。仮にその人が男性器が怖くないとしても、「怖くない」ということを「好き」と表現するのは単に言葉として誤りである。
 また、『私は怖くないから、それは差別です、はないでしょう』というのも藁人形論法。「私は怖くないからそれは差別だ」という主張はしていない。フォビアと差別の関係については、清水晶子氏の連TWが的確。

 ちなみに、『特定の経験に基づいて男性またはペニスへの恐怖を覚えることは差別ではありません』と清水氏は言うが、私は、フォビアについて、(その人の意思ではどうしようもなく)恐怖対象を『いわば不正確に原因として同定』してしまうときに働くある種の「カテゴリー化」作用は、差別の「カテゴリー化」と類似性があると思う。恐怖感情それ自体が差別かというのは立場が分かれる論点だろうが、少なくとも、清水氏の言う、『問題は、そのようにいわば不正確に原因として同定された対象をそれ自体が一般的に脅威を与え害をなす性質を持つものとみなすことであり、』の部分については、「私にとって怖い」という単なる恐怖感情を超えており、その「問題」を「差別」と名指しても良いと私は思う。
 性暴力被害やトラウマから差別的考えを持つようになる人はいるし、ケアと伴にその差別への対応をどうすべきかを議論すれば良いのに、そもそもそれを「差別」と認めたくないというのは、「差別」への対応のバリエーションがいかに少ないかというのを表していると思う。「差別=悪い」で止まってしまって、「ただ批判する」以外の、差別への実践的な対応が貧しいから、差別かどうかの判定時点で「例外」にしてしまう。これは、いまの社会で主流の「差別」観がいかに狭くて硬直しているかという話とも関係してくるが、今回はそれは置いておこう。

一般論としての話

 以上を前提として、次に本論に行く。一般的にセックスワーカーを「誰とでもセックスできる人」と呼ぶ・見なすことがどう誤っているのか。

 まず、セックスワーカーは、定義上、提供する労働サービスのなかにセックス(性交・擬似性交)を含んでいる人だけではない。ゆえに、「誰とでも」どころか、全くセックスしない(orできない)セックスワーカーもいる。性的行為を全て「セックス」として定義することもできるが、広義すぎて使いづらいし一般的用法でもない。

 次に、セックスを労働サービスに含んでいる人であっても、「誰とでもセックスできる」とは限らない。これは複数の意味文脈があるので掘り下げたいと思う。

 このTWが支持され、げいまきまき氏なども評価しているようなのだが、

主張内容として正しい一方で、反論の仕方としての限界もあると思うのでコメントしておきたい。
 solakofi氏の連TWを見るに、氏の「セックスワーカーは『だれとでもセックスできる人』ではない」という反論は次の2点によって構成されている。
1.労働とプライベートの振る舞いは異なる。
2.労働サービス提供の合意には『条件』がある。
 まず、1.について。『わたしは調理師だけど、「誰にでも手料理振舞う人」じゃない。』と言うときの「手料理」という単語や、『労働は労働。プライベートはプライベート。』という記述に注目する。プライベートのときと労働のときとで、(作業としては)「同じ」活動が、同じ行動論理・基準で行われるとは限らない。それは、セックスワーカーだけでなく、銀行員や調理師やその他の職業でも言えることである。このとき、「誰とでもセックスできる人ではない」という主張は、「仮に、労働としてAをしていたとしても、プライベートでもそうとは限らない」という意味で解釈できる。そうすると、「じゃあ相手が客としてなら『誰とでも』セックスできるのか」と問える。これが次の2である。
 『銀行員は融資を申し込んできた人にお金を渡すけど、それは渡す側と受け取る側両方で合意を形成した結果であって、「だれにでも」渡すわけではない。利息やリスクや各種審査といった条件をクリアした人同士が、お互いの利益のために、やり取りをする。それが「契約」であり、「仕事」というもの。』2では、「誰とでもセックスできる人ではない」という主張は、労働サービスを欲して来た「客(候補)」であっても、条件を満たさず両者の合意に達しなかった場合は商談が成り立たないという意味である。例えば、設定してある対価を支払わない人や、契約規則事項を守ることに同意しない人ともセックスできるか、といえば、「できない」のである。
 以上の2点は内容としては正しい。しかしながら、セックスワーカーが「誰とでもセックスできる人」として見なされるとき、そこには文字通りの「誰とでも」とはまた別の含意がある。それは、「特定の人とではない」ということだ。
 つまり、その人との関係性に関わらず(代金を払い規則に同意した人なら)「誰とでも」セックスする、ということこそが「何かおかしい」とされているのであり、その「おかしい」ことを理解可能にする説明として『チンコ好き』が持ち出されるのである。(コンビニの店員に「まあ、あなたはレジ好きだからね」とか決めつけるような不当性がセックスワークの場合には見えにくくなってしまうのは、この社会の性的な神話・規範・「常識」のせいである。)これはセックスワーカーが被るスティグマとしてはど真ん中の、「見知らぬ人や不特定多数と(『愛』のない)性的行為をすること」のスティグマである。これに対して、「いや、文字通りの『誰とでも』ではなく、ある種のハードル(契約合意にあたっての条件)があるのだ」という反論は、反論として機能しない的外れなものになってしまう。このときは、「それの何がおかしいのか」という、引き受けつつの真正面からの反論が必要になる。

 次に、「条件」に関して、代金を払い規則に同意した人なら、相手の属性に関係なくセックスワーカーは「誰とでも」セックスできるのか、というと、それができるセックスワーカーだけではない。これは別にワーカーが「選り好み」したくてしているというわけではなく、例えば、私生活で関係性が近い人とは心理的に(あるいはその後の関係への影響を鑑みて)セックスできないという人もいるだろう(例えば知りあい、別の職場の同僚、友人、極端に言えば家族とか)。また、特定の配慮が必要な障碍者相手の場合、十分な知識や経験が無くどうしてよいか分からないので満足に労働ができないということはあり得る。また、特定の性別の相手としかセックスできないとして相手の性別を限定したりすることもあり得る。例えば以前「レズ風俗」の話(https://togetter.com/li/1211310)で、「レズ風俗」で働くセックスワーカーの人々が「男性と寝たくない」からそこへ入ったという可能性が話題に上った。
 セックスワーカーが客の性別を限定する(あるいは対価報酬に差をつける)ことに対して、「そりゃ、セクシュアリティと合致してればセックスワーカーも性的快感が得られるんだから、それで労働しても良いかを決めるんだろう」と単純には言えない。相手が性的対象内であっても気持ち良くない(ときに苦痛な)セックスはあるからだ。とはいえ、そのような労働の「したさ」「しごこち」でもって「自分がこの労働をするかどうか」を決めるということは(他の職業と同様に)普通にありえる。
 ここで、ではその性別限定は差別か、という問いを立てることもできる。セックスワーカーのセクシュアリティに関わらずできる性的労働作業はあるが、一方で、セックスワークに関する自己決定を例えば銀行員や料理屋が特定の性別の利用を断ることと全く同一視することはできない。
 差別かどうかの判断で重要なのは、その拒否の理由は何か、ということだ。例えばセックスワーカー本人が男性恐怖症のため自身の負担が大きい、酷い場合は実際に労働が遂行できないという場合もあるだろう。また、自身のセクシュアリティと関係して「何となく忌避感がある」という理由の場合も考えられる。この「何となく」に差別は関係しているだろうか?もしかしたら関係しているかもしれない。しかしこのとき注意すべきなのは、それは「セックスワーカーが行う差別」の問題ではなく、「自分」も含めたあらゆる人に関係する問題であるということだ。マサキチトセ氏が指摘するように、個人の性的欲望のあり方は差別と無関係とは言い切れないし、『「候補に入れる/入れない」という事前の意思』は『実際の愛や情動、性的興奮にしばしば裏切られる』。

「自分」のセクシュアリティはなぜ「そう」なのか?性的興奮の対象は限られるとしても、対象外のことに忌避感があるのはなぜか?

 「誰とでも」セックスできたりできなかったりするセックスワーカーと、「誰とでも」セックスできたりできなかったりする「(セックスワーカーでない)自分」は、共通点も差異もある人間である。
 セックスワーカーを「『誰とでも』セックスする人」と見なしてその理由を勝手に決めつけるより先に、自分に問うてみよう。「自分が『誰とでも』セックスできないとしたらなぜなのか?」という問いは、セックスワーカー以外の「私」にも開かれている。



以下、宣伝
本記事はちょっと頑張って書いたので、代わりにここで宣伝させてください。
個人的推し1『セックスワーク・スタディーズ』

個人的推し2「花魁Vtuber」由宇霧

https://upd8.jp/virtual_talent/%E7%94%B1%E5%AE%87%E9%9C%A7.html
https://note.mu/yugiri1115

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?