中世哲学における神の存在証明

トマス・アクィナス『神学大全』における神の存在証明について。

この記事ではまず,神の存在証明とは何であり,なぜ証明する必要があるのかについて述べる。その後,実際に5つのやり方で証明する。

1.なぜ神の存在証明は必要か。

中世哲学において,神の存在は,信仰の結果として得られるものではない,と考えられていた。

そもそも神の存在は,それ自体として自明なものであるが,しかしわれわれ人間にとっては自明ではないものである。

それ自体として自明ある:神は,存在の原因を他に持たない。つまり,他のいかなるものからも,存在を付与されていない。
人間にとっては自明でない:神を直接知ることはできない。つまり,誰かから教わる必要があり,万人に知られていると限らない。

これら両者の間にあるギャップを埋めるためには,理性的な論証がなくてはならない。したがって,われわれはこの論証に取り組むことが必要とされている。まさにこの論証のことを指して,神の存在証明と呼ぶのである。このように,神の存在は(信仰によってではなく)論証によって得られる知識である。

なお,神の存在証明においては,あくまで「何かしらの第一原因があること」を示すことだけが問題とされ,それが人格神や唯一神であるかどうかは,まだ問題とされない。つまり神の存在を証明しただけでは,それが実際にキリスト教的な神であるかどうかはまだ帰結しない

(補足:神の存在証明が行われているのは,トマス『神学大全』の第1部第2問,つまり序盤である。このことからわかるとおり,神の存在証明は,あくまで,神について議論するうえでのファーストステップとして位置づけられているのである。じっさい,それ以降の箇所で「では神はどんなものであるか」を徐々に明らかにしていき,それがキリスト教的な神であることを論じていく,という流れとなっている。)

2.論証の方法

トマスが『神学大全』の中で行った神の存在証明には,5つの方法がある。そのうちの4つを宇宙論的論証といい,残りの1つを目的論的論証という。

2−1.宇宙論的論証

宇宙論的論証とは,この世界全体の仕組みからして何らかの第一原因があるはずだ,もしそのような第一原因がないとすれば矛盾が生じる,というしかたで論じる方法である。

(方法a) 運動の第一原因としての神を措定する

まずは,運動の第一原因としての神を措定するという論証を扱う。なお,ここでいう運動とは,あるものを可能態(動かされうるもの)から現実態(動いているもの)へ引き出すことである。

以下のように証明する。

・まず,同一のものが,同じ運動という側面で,可能態(動かされうるもの)であるのと同時に現実態(動いているもの)であることはできない。(例:現実的に熱いものは,それと同時に,可能的にも熱いものであることはできない。)
・このことからして,自らが自らを動かすことはできない(同一の運動という側面で,自ら動かし動かされる状態になることは不可能である)ことが帰結する。つまり運動は,つねに他のものから受けるものである。
・したがって,無限遡行の不可能性(※)より,最初の動かすもの「第一動者」(動かされずして動かすもの)を措定する必要が生じることがわかる。
・そこで,この「第一動者」のことを神と呼ぶこととする。(証明終了)

(※)なお,この証明中で用いられている「無限遡行の不可能性」とは,連鎖の先にたどり着けるものがなければ,それはないに等しいという考え方である。つまりここでは,「運動の連鎖の始点がなければ,運動そのものがないに等しいことになってしまうが,しかし現に運動はある,よって運動の始点はある」というしかたで論証されているのである。

(方法b) 作出の第一原因としての神を措定する

つぎに,作出の第一原因としての神を措定するという論証を扱う。論証そのものの進め方は,先ほどの(方法a)のときと同じである。

・まず,作出因の秩序(AがBを作り,BがCを作るという秩序)において,自分が自分の存在原因であることはできない
・また,無限遡行の不可能性(※先述)より,作出因の系列を無限に遡ることもできない
・したがって,最初の作出因(他からは作出され得ないが,他を作出するもの)を措定する必要があることがわかる。
・そこで,この「第一作出因」のことを神と呼ぶこととする。(証明終了)

(方法c) 必然性の第一原因としての神を措定する

つぎに,存在をもたらす必然性の第一原因としての神を措定するという論証を扱う。

存在し始めるきっかけがなければ,永遠に無のままである。(というのも,もしこの世のすべてが「存在することも可能であり存在しないことも可能なもの」であったとすれば,何一つ存在していなかった可能性もあるはずだ。)
・だが「全てがたまたまだった」「たまたまこうなった」という説明のしかたでは,あまりに蓋然性が低い。つまり,充足理由律(※)より,すべてが偶然だったのではなく何かしら必然的なものがなくてはならないことになる。実際に今こうして世界は存在しているのだから,「必ず存在しているもの」つまり「必然性の第一原因」がなくてはならない。
・そこで,この「必然性の第一原因」を神と呼ぶこととする。(証明終了)

(※)証明中で用いられた「充足理由律」というのは,あらゆる物事には十分な理由があるという原理である。これは先ほどの「無限遡行の不可能性」のときと近い考え方とみなせるだろう。つまりここでは,「存在の必然的な始まりがなければ,あらゆる存在がないものとなってしまいうるが,しかし現に存在はあるためそのようなはずはない,よって存在の必然性はある」というしかたで論証されているのである。
(なお,ここでの必然性と対をなしている可能性は,現代的な意味の「複数あるシナリオのうちのひとつでその性質を満たしている」とは異なる。むしろ「一度はその性質を満たしていた」と捉えるほうがよいだろう。)

(方法d) 完全さの第一原因としての神を措定する

つぎに,完全さの第一原因としての神を措定するという論証を扱う。

「より善い」とか「より悪い」といった度合いがあることを認めるとすれば,そこには尺度・基準があらかじめあるということになる。
・また,最大度に真なるものは,最大度に存在するものでもある。(というのも「」は「」と同一視されるものである。)
・いっぱんに,ある属性をもつ物々において,最大度であるものが,その属性の度合いを判断する基準となる。つまり,最大度であるものが,原因でもある。(例:「赤さ」の度合いを判断するとき,「最も赤いもの」を色見本(基準)とみなす。つまり赤性の原因(赤であることの判断基準)は「最も赤いもの」である。)
・いま,「善なるもの」という属性をもつ物のうちで「最大度に善なるもの」を,どの程度「善」であるかの基準とする。これが「善」の判断基準,つまり「善」の原因だと言える。
・そこで,この「善の判断基準の第一原因」のことを神と呼ぶこととする。(証明終了)

2−2.目的論的論証

目的論的論証とは,この世界全体の秩序を統べているものがあり,万物はそれを目的としている,という考え方をもとにして行われる論証の方法である。後に近代の哲学者たちにも好まれる論証となる。

(方法e) 万物の目的としての神を措定する

ここでは,万物の目的としての神を措定するという論証を扱う。この論証の背景には,自然に対する驚嘆が念頭に置かれている。

・知的な認識能力を持たない自然物であっても,目的によって秩序付けられている。(例:動物や虫は生き物であるが,合理的な行動や体のつくりをしている。水は事物であるが,上から下に流れる。)
・目的に向かうということは,高度に知性的な認識能力が必要なはずだ。(つまり,認識能力が,目的に先立ってあるはずだ。)
・自然界のあらゆる合理性が達成されるには,導き手が必要である。そしてその導き手は,目的を把握している必要がある。
・そこで,この「知性認識者」(世界全体の目的を把握している者)のことを,神と呼ぶことにする。(証明終了)

なお,現在のわれわれの見方からすると,このような生き物の合理的なありかたの説明は,進化論で言われるような「適者生存の末にたまたまそうなった」という説明のしかたと相反するように思えるかもしれない。しかし考えてみれば,進化論のように「たまたまそうであること」を主張することは,合理性を達成のための「導き手としての知性認識者」があることを主張することと比べて,実はそれほど異なるものでもないと言えるのではないだろうか。

2−3.存在論的論証

トマスはこれを行わなかったが,アンセルムスやデカルトは,「これ以上大きいものはないと仮定すると矛盾が生じる」といった方法で,神の存在を,存在論的に論証した。ただし,後にカントは,このような論証を否定することとなる。

以上

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