見出し画像

教会から捨てられてもスラムに残ることを決めた牧師

今日はイースター(復活祭)でした。カトリックの多いフィリピンでは、日曜日のイースターだけでなくイースター前の1週間を丸ごとHoly Week と呼んでお祝いします。特に木曜から日曜までは特別な名前がついていて、それぞれ木曜日はMaundy Thursday, 金曜日Good Friday, 土曜日はBlack Saturday, 日曜日は Easter Sundayと呼びます。今日はHoly Week最終日のイースターだったのですが、普段通っている教会とは別にローカルの教会にも初めて参加してみました。

その教会はなんと墓地の中にあります。Cebu Chinese Cemeteryと呼ばれる墓地は、その名の通り裕福な中華系フィリピン人によって建設されました。しかしいつからか貧しいフィリピン人たちが大量に住み着くようになって、スラムと化しています。これは私の想像ですが、元々住居用の区画ではないので、おそらく不法占拠状態なのではないかと思います。

私はSLPCという日系のNGOのボランティアに参加したときに、この場所について知り、しかもそこにプロテスタント教会があって毎週礼拝を捧げているということを聞いたので、試しに行ってみることにしました。

教会までの道中はまさにスラムという感じで、雨も数日降ってないのに水溜まりはそこかしこにあるし、流れている川は生活排水とごみで汚れ切っているし、お菓子のゴミは至る所に落ちてるしという感じです。スラムの様子も写真でお見せした方が雰囲気が伝わると思うのですが、そこでただ生活している人の様子を許可もなく写真に収めるというのは、どうも見せ物にしているような感じで苦手なので、写真は撮っていません。

その代わりに、SLPCのWebページに掲載されている動画を引用させていただきます。少し様子が伝わるかと思います。

(ちなみに1’15あたりに映っている赤いTシャツのおじさんが、この後お話しする牧師先生です。)

礼拝自体は至って普通のプロテスタントの礼拝という感じで、説教を聞いたり、みんなで賛美したりという感じでした。基本的に現地語のセブアノ語で進んでいくので、ほとんど理解できないのですが、牧師先生だけは流暢に英語で話すので、英語とセブアノ語をミックスして説教してくださいました。ありがたかったです。セブアノ語が分からなくても賛美に関しては、歌詞が映し出されるので一緒に歌うことができました。基本的にローマ字読みすればいいので、発音は簡単です。

礼拝終わりに牧師先生と少し話す機会を持つことができました。以下にその様子を描写します。

牧師「今日の説教でも言ったように、最も大事なことは己を捨ててイエスキリストに仕えることなんだ」

私「全くその通りですが、言うのは簡単でも、実行するのは難しいですよね」

牧師「そうだね。ちょっと昔話をするけど、俺も元々は教団から派遣されてここに来たんだ。日曜の礼拝だけじゃなくて、教会学校もやっててさ、この墓地で生まれた子供たちに神様の福音を教えていたんだよ。でもね、ある日、俺の所属している教団がこのスラムでの宣教活動をやめることを決定して、俺も別の教会に行くように言われたんだ。でも俺がここを離れてしまったら、教会学校の子供達が残されてしまう。そんなことはできないと抗議して、俺はここに残ることを決意したんだ。そしたら教団は、命令に従わないならもうあなたのことはサポートできないと言って、俺を解任したんだ」

私「え、教団を離れて、自分で教会を建てたってことですか?」

牧師「いや違う。教団を離れたわけじゃなくて、教団が俺を辞めさせたんだ。そして仲間たちと一緒に教会を自分たちの手で建てたんだよ」

私「すごい。教団に捨てられてまで、宣教活動を続けるなんて…」

牧師「実は、俺は元々skilled workerでやろうと思えばきっと海外でも働けたと思うんだ。でも俺は牧師になる道を選んで、ここで子どもたちと一緒に暮らして、宣教を続けることにしたんだよ。」

私「確かに先生の英語はとても流暢ですもんね…」

牧師「いや大したことはないさ。ちょっと喋れるだけだよ。ぜひこれからも良かったらウチの礼拝に参加してね」

すごい衝撃を受けた。己を捨ててイエスキリストに仕える。有名な聖句なので教会でもよく耳にする。でも今日ほど、この言葉がリアリティを持って、自分の身に迫ったことはなかった。彼はフィリピン人の中では相当エリート階級だと思う。とても流暢に英語を喋るし、海外で働くだけのスキルもある。それなのに、教団に捨てられてもスラムで宣教を続けることを選んだ。どうしたらそんなことができるのだろう。信仰によらずしては決してできない選択だ。合理的に考えたら全く辻褄が合わない。自分自身や家族の利益を追求したら、海外に出て働くというのが普通のフィリピン人の発想だろう。フィリピンには貧富の格差があって、経済力によって、社会階級も決まる。私立学校に通えたか。学校に通い続けることができたか。英語教育を受けることができたか。大学に行けたか。ホワイトカラーになることができたか。

社会階級によって通う教会だって違う。僕が普段通う教会は、空調が効いてて、建物は立派で、みんな訛りのない綺麗な英語を喋り、男性は襟付きのシャツを着て、女性は上品なドレスのような格好で来る人ばかりだ。スラムの教会は、空調はないし、建物の見た目は廃墟みたいだし、みんな古着のようなTシャツを着ていて、子供や野犬が礼拝中も走り回っている。同じ神を信じるクリスチャンであっても、そこに明確な格差がある。日本人の私には想像もつかないが、フィリピン人にとって社会階級を超えるということは大変難しい選択なのではないか。いくら信仰があったとしてもきっと簡単ではないだろう。

自分は何かを捨てた経験はあるだろうか。自分の特権を、自分の財産を、自分の欲望を、果たして今まで捨てたことはあったろうか。

少し給料を下げてフィリピンで転職することを受け入れるのにあれだけ苦労した自分にとって、牧師先生のように真に己を捨てることは到底できないように思える。給料は下がったと言っても、僕は結局、街の中心部にある高層のコンドミニアムに1LDKを借りて暮らしている。おそらく一般のフィリピン人の10倍近くの家賃を払っている。結局自分は何も捨ててはないし、何も変わってはいないのだ。

牧師先生の言葉をこれからも考え続けたいと思う。まだフィリピンに来て1ヶ月。どうかこれから生活を続ける中で、少しでも自分が変えられますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?