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「戦隊的なるもの」にスーパー戦隊シリーズを押し込めてはならない

現在『炎神戦隊ゴーオンジャー』(2008)をYouTubeで視聴中だが、やはり私はこの作品に全くピンと来ないし面白いと思えない
一時期はB(良作)と評価もしていたが、批評の軸が完全にシフトした今、私の中で「ゴーオンジャー」は「資本主義の汚染が生み出した戦隊のフリをした何物か」に過ぎない。
そこで、以前より交流を持たせていただいたことがある方の「ゴーオンジャー」評を見たのだが、そこにはこのようなことが書かれてあった。

そういう点では戦隊シリーズ史においては、『デンジマン』『ゴーグルV』を踏まえた上で1983年に一つのフォーマットを完成させ、 後世の“戦隊もの”のイメージを確立した『科学戦隊ダイナマン』と似た位置づけになるかもしれません。
『ダイナマン』が1983年にして後に続く戦隊シリーズの一つの完成形とも言える姿を描いたのに対し、 それまでの“戦隊的なるもの”を集約した、という意味では逆ではありますが。
『ダイナマン』から数えて、25年(!)、王道戦隊の一つの到達点と言っていいかと思います。

『炎神戦隊ゴーオンジャー』感想総括&構成分析

この評価に私は当初から違和感しかなかったのだが、なぜかというとそもそも「ゴーオンジャー」の企図は「玩具売り上げを伸ばすこと」であり「戦隊とは何か?」という枠に対する格闘ではないからだ。
あくまでも「ゴーオンジャー」という作品は「ガオレンジャー」の形を変えた縮小再生産に過ぎず、「画面の運動」として見た場合「現在」に刺激や驚きを与えてくれるものがあるわけではない
“戦隊的なるもの”が具体的に何を指すのか、また「ダイナマン」評の「最大公約数的な“戦隊もの (特撮ヒーローもの)”のイメージをそのまま具現化したような作品」も不明である。
これだと蓮實が「監督 小津安二郎」を書くまで蔓延していた「小津的なるもの」のイメージをもって小津映画を批評する似非批評と大差はないのではないかと思えてならない。

以前から気になっていたのだが、このGMSという方のスーパー戦隊をはじめとするヒーロー論や評価は私からすると「画面の運動」に対する刺激を欠いた町山や宇多丸の批評と大差ないのではないか。
一見作品主義的に批評しているようでいて、やはり論調が最終的に脚本家・演出家・プロデューサーといったところに飛び火しているし、作品の表層ではなく深層のテーマ性やメッセージに帰着している
こうなるともはや作品批評を離れて「思想が優れているから凄い作品」ということになりはしまいか、何が言いたいかというと実はこの人もまた宇野や切通と似たスノビズムに陥っているだろう。
「ダイナマン」にしたって「幼少期の原体験があるから好き」と素直にいってしまえばいいものを、わざわざ「最大公約数的な“戦隊もの (特撮ヒーローもの)”のイメージ」なんて言葉で派手に権威づけをしようとする。

改めて思うのだが、そもそも「戦隊的なるもの」とは何であろうか?「最大公約数的な“戦隊もの (特撮ヒーローもの)”のイメージ」とは具体的に何を指すのか?

世間一般的なスーパー戦隊シリーズのイメージは原点である『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)の「キレンジャーの錯誤」だが、まさかそれではなかろうな?
確かに私はスーパー戦隊シリーズの魅力の1つを「1人1人の色気=存在感と5人揃った時の立体感」と書いたが、それはあくまで「画面の運動」として感じる魅力である。
それは決して「戦隊的なるもの」でも「最大公約数的な“戦隊もの (特撮ヒーローもの)”のイメージ」でもないし、ましてや「一人一人は小さいが5人合わせれば無敵」でもない

スーパー戦隊シリーズの本質を「チームワーク」だと思っているファンは大多数いるが、単に複数のヒーローが出てきたりチームを組んだりするという意味ではウルトラもライダーも大差はない。
また、「様式美」なんて言葉で雑に片付けた宇野一派の眷属の禿頭評論家しかり、いい加減「戦隊的なるもの」なんて言葉でスーパー戦隊を括ってしまうのを辞めてはどうか?
それは作品をしっかり見るということを失わせてしまうし、また作品の評価と実際の作品との間の乖離ができてしまい、それは作品にとってもファンにとっても悲惨なことである。
YouTubeの戦隊解説の動画もものすごく雑な紹介しかしていないし、本当にきちっとフィルムを己の目で見て感じたその体験や経験を言葉にできたのかと疑ってしまう。

話を「ゴーオンジャー」に戻して、確かに「ゴーオンジャー」は作品として破綻しているわけではないし、玩具販促のためのキャラや物語はそこそこに描かれている。
だが巨大戦にしても等身大戦にしても「おお!こんな凄いアクション見たことない!」と震える瞬間がなく、どんどん盛られていくロボットの合体は気色悪い。
翌年の『侍戦隊シンケンジャー』(2009)のサムライハオー然り現在放送中の「キンフグオージャー」のロボ然り、何でもゴテゴテに混ぜればいいってもんじゃない。

お前ら紅白歌合戦のラスボス・小林○子かよ!

いや小林さん本人に失礼な話なのだが、ロボット含めて00年代の「ガオ」以降の戦隊は資本主義が服を着て歩いてるような作品とは言えないジャンクフィルムばかりである。
こんなものを真にかっこいいと思って育った子供が果たしてどれだけいるかは知らないが、「ゴーオンジャー」で喜ぶ子はおそらくこうしたキマイラ的なものでも喜べてしまうのであろうな。
無駄を徹底的に省いたミニマリズムなものが大好きな私にとってはそんなもの反吐が出るほど嫌いなのだが、本当に年々「企業の闇」を隠せなくなってきてるのはどうなのか?
まあパワーアップ合戦を繰り返す方が話は作りやすいし、「ゴーオンジャー」は敢えてその大衆に擦り寄る曲学阿世をやってみせたという意味では確かに「戦隊的なるもの」の集約ではあるが。

要するに「ゴーオンジャー」という作品は「ほら、お前らガキはこういうおもちゃ買いたいんだろ?こういうヒーロー好きなんだろ?」と作り手が受け手をカモにして搾取しているのである。
そんなものの中からスーパー戦隊の「現在」に刺激を与え続ける作品が生まれるわけがないし、またそれは受け手の感性を変えさせるだけの迫力を画面が持ち得ていない証に他ならない。
どうも、受け手のフィルム体験や受容・消費も含めてスーパー戦隊シリーズにとって悪い意味でのターニングポイントはやはり『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)のようだ。
悪い意味で、あれがCG全盛でひたすらパワーアニマルを売ることのみを目的にし、変身前と変身後の一体感やアクションといった大事な要諦を疎かにしてしまった。

東京国際映画祭のトークショーで日笠プロデューサー自らガオレンジャー6人のキャラクターが立たなくてもパワーアニマルが売れればよかったとの発言までしている。
慌ててフォローを入れていたが、これに役者はともかくスーパー戦隊ファンは本来なら怒るべきである、被写体に何の愛もないといっているのだから。
しかし、同じような姿勢で作られたはずの「ゴーオンジャー」も同じように作られ、やはり同じようなジャンクフィルムなのに、誰一人批判する者はいなかった。
それは作品としてのクオリティーの差かというとそうではなく、もはや資本主義に汚染されてしまい別物と成り果てたスーパー戦隊の構造に誰もが諦め受容せざるを得なかったからであろう。

私にとって「戦隊とは何か?」ということに対する内省的な問いがきちんと有効的に機能していたのはやはり『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)までであったといえる。
そこからはもう商業主義のレールに乗っかるしかなく変革らしい変革も揺らしも生まれない、もちろんそんな中でも良質な作品だってなくはないのだが。
いい加減「戦隊的なるもの」がそもそも本当にあるのか?あるとすればそれは実際の作品と重なるのか?見る側の感性を刺激するものなのか?
スーパー戦隊論に限らず、今はあらゆる意味で「そもそもそれって本当に正しいのか?」という見直し、正に「批評の批評」がなされるべき時である。

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